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August 02, 2008

「おしん」(新橋演舞場) を観る。

2008年7月20日(日) 新橋演舞場・午前11時30分開演

「お し ん」
原作・脚本  橋田壽賀子
演出      石井ふく子

(「おしん」がNHKで放送されたのが1983年4月から84年3月までの1年間だから、丁度25年前になる。視聴率50%―60%で、みんな見ていた。僕も見た。そして、やっぱり、時々、泣いた。
今回、芝居は、初めてだけれど、何度も、やっぱり涙が出た。自分の祖父母、両親、育った東北の農村、と色々重なることが多くて。)

第一幕
(出演)
ふ じ   長山 藍子
作造    前田 吟
おしん   佐々木麻緒・諸星すみれ
な か   赤木春

つ ね   東 てるみ
―――
・舞台は、明治40年で、おしんは7歳だから、おしんは明治33年生まれということになる。
(啄木は明治19年、宮澤賢治は明治29年、小林多喜二は明治36年、宮本百合子は明治32年、宮本顕治は明治41年生まれ。福田赳夫元総理は明治38歳でわかりやすい。明治38年生まれ。
ついでだけど、ボクの祖父は明治12年、祖母は明治24年生まれだ。)

・父(前田吟)さん、をみる。
やっぱり、イトウシロウさん、がヌーット、時々現れる。テレビの中の。雪の中で、蓑を着て、大きな目をして、がっちりした日本人の顔と体型で「オヤジパッション!」ではない、「おしん!」と叫んでいる、あのシーン。丘の上から、いかだに乗っているおしんに向って。迫力があったなー。

前田吟さんは、ボクにとっては、映画「ドレイ工場」の前田吟さんだ。あれがデビュー作ではなかったかな。寅さんでも、なんでも、今度の舞台も、凄い方だけど。「ドレイ工場」は忘れる事はできない。約40年前の映画だけれど。

{思い出すままに書こう。映画の舞台は江戸川区だった。「日本ロール」と言う、今もある会社での組合結成と首切り弾圧と闘う労働者の姿をえがいている。映画の中では「関東鉄鋼」として出てきている。
ボクは江戸川区で新聞配達をしていた頃、「日本ロール争議団支援集会」へ行った。(どこへでも、誘われれば出かけたものだ。自転車をこいで)。そこで、大学の先輩に会った。ボクが1年の時、彼女は4年だった。彼女は学生大会などで、活発に発言し、社会学部自治会の民主的運営を強く求めていた。良く知られている女性だった。卒業後、江戸川区で中学校の教員をしておられた。彼女は、「日本ロール争議団」の男性と婚約しておられ、やがて結婚した。} 

・おしんは(7歳で)、米1俵、と引き換えに、1年間の奉公に出される。
「米について」
①「おしん」とその家族は、大根メシ、を食べていた。大根を小さく切って、米と一緒に炊いて、ご飯を増やすやり方だ。僕達は、そのメシは食ったことは無い。しかし、子供の頃、真っ白な米だけのご飯を食べられるのは、盆と正月だけだった。普段は稗と麦が主で米を2分位混ぜたごはん―「従兄弟(いとこ)めし」と言った―を食べた。
ボクが、高校を卒業する(1965年・昭和40年頃)までは、そのごはんだった。

②父母は、自分達が子供の頃は、米だけのメシを食えるのは、葬式と嫁取り(結婚式)の時だけだった、と良く話した。臨終間際のおじいさん、おばあさんの枕元で、米を入れたザルを揺すり「ザ、ザ、ザー・ザ、ザ、ザ、ザ―」と音を立て、「じいさまー、米だよー」「ばあさまー、米のメシだよー」と呼びかける慣わしがあったと話した。時々、米の音で死に掛けた年寄りが「むくっ!」と、起き上がったものだ!と笑い話にしていた。

③明治44年生まれの叔母(父の姉)の話
・「村には毎日三度三度米のメシを食っている家が2件あるって、言われていたんだ。‟なかつぼ”と‟かわらばたけ”だ。」「おれを‟かわらばたけ”で嫁にもらいに来た時、おばあさまは、メシの話は本当だって、言ったんだ。」「嫁に入ったらウソだった。ウソだった。だまされた。だまされた。」「毎日、稗飯だったものなー。」・(何回も聞かされた。聞かされるたびに笑った。)

④小学校6年生の時(昭和33年だったかな)、修学旅行で盛岡へ行った。初めて汽車に乗り、旅館へ泊まった。同級生17人だった。旅館での出来事。全員、米だけのご飯が珍しく、嬉しくてたまらなかった。味噌汁やオカヅには、目もくれず、ご飯だけを食べた。おかわりを何回もして。最高11杯食った奴が居た。女中さんがびっくりして、付き添っていた先生と校長先生へ「どんなお子さん達なんですか?こういうのは初めてです。」と苦情とも、質問ともつかない、話をしてきた。先生は「おかずも食え!味噌汁も飲め!」と大声を上げた。
―――
*おしんは、奉公さきを飛び出す。雪の中で気を失う。
山小屋で暮らす俊作(勝野洋)と炭焼きの松蔵(小宮健吾)に助けられる。
俊作は、日露戦争に従軍した陸軍中尉だったが、脱走兵として山の中で隠れて暮らしている。

・舞台は美しかった。俊作さんも松蔵さんも姿勢と動作と言葉とが気持ちが良くて、おしんは、めんこかった。

・「炭焼き」はボクの家も部落も全部やっていた。特に冬の間は主要産業だった。手伝ったものだ。

・「日露戦争」について。
①小学校の朝礼の時(昭和30年ごろだった)、校長先生が話された。「ユキさんのおじいさんが亡くなられました。おじいさんは、日露戦争に行かれたかたです。皆さんは、日露戦争のことを聞いたことがありますか。」
だれも、知らなかった。この頃戦争と言えば、やはり第2次世界大戦、父親の世代の戦争のことだった。

②祖父の世代の戦争体験と言うと、ぼくは、大叔父(祖父の弟、明治14年生)から(ほんの少しだけれど)話を聞いた事がある。
アサキチ大叔父は、18歳で軍隊へ入り3年間訓練を受け、その後台湾へ行き、そこで3年間務めた。この時の「表彰状」かなにかがあって、みせてもらったことがある。日清戦争が明治27(1894)年・日清講和条約が明治28年4月・でこの時、台湾の日本への割譲が決まっている。日露戦争が明治38(1905)年だから、大叔父は日露戦争の時は台湾にいたことになる。「台湾は温かった」と話ていた。

・青森県八戸の「練兵所」で訓練を受けた。大叔父の生家・岩手県普代村から距離にして120km-130キロメートル位ある。汽車もバスも無い時代だから、入隊する時は歩いて行った。年2回の休みの日には歩いて家へ帰った。3泊4日の休日が終わると、また歩いて八戸まで行った、と話した。東京で云うと、正月に行なわれる箱根駅伝の距離と同じ位だ。箱根駅伝は10人のリレーでやく6時間ぐらいで走る。
(実家へ帰る時)・夕方5時で訓練が終わると、握り飯を何個か持って歩き始め、一晩中歩いた。翌日昼前に家へ着いた。一休みして、食事をして、夕方から両親の畑仕事を手伝った、と話した。(誰もそうだったし、当たり前のことだった、とも話した)。
(錬兵場へ帰る時)・家へ2泊して、昼過ぎに家を出る。9里(36km)先の、久慈へ夕刻に着き、旅館へ泊まる。夜中の1時か2時に旅館を出て八戸を目指して歩く。9時の点呼に必ず間にあった。そのまま、午後5時まで訓練を受けた。病気など1回もしたことも無い。休んだことも無い、とも話した。
大叔父は、身長5尺7寸(171cm)だから、当時としては大きい方だった。

・第2部・オカヨお嬢様の「家出」のこと。いろいろ思い出したことがある。そのうちまた。


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