「東日本大震災と平和シンポジウム」(主催:法政同窓生地理学科9条の会)の続き
2011年8月2日(土)・午後2時・東京労働会館・
★「東日本大震災と平和 シンポジウム」(主催:法政大学同窓生地理学科9条の会)
*報 告 ②
「阪神大震災の経験から」
地理学科 1969年入学 兵庫県神戸市在住 斎藤 明裕
(卒業後、神戸市内で中学校教員を定年まで勤める。)
【斎藤氏のお話】
(一部―メモと黄木氏まとめより)
・私は資料は用意していない。
口頭での報告になる。
阪神大震災ー今から16年前になる。
1月17日だった。
前日、近所のお寺の裏山に下の子を連れて散歩に行った。
何時になく温かい日だった。
蛇が地面を這っていた。
その時は、あったかいせいだろう、ぐらいに思っていた。
後で思えば昔からの言い伝え通り、地震の予兆であった。
東日本大震災はマグニチュード9・0だったが、阪神淡路大震災は7・3だった。
地震の規模は、今回の東日本の1000分の1だが、震度は同程度と云われている。
阪神・淡路はの被害は、地震の揺れによる建造物の破壊だったが、東日本は揺れのほかに津波、原発の被害が重なっている。
大きな違いがある。
・当日の朝、食器棚が倒れて、大きな音で目を覚ました。
気が付いたら、下の子(小4)が寝ていたはずの場所に洋服タンスが倒れ込んでいた。
タンスのドアが開き、ついたての役割をして、その空間に子どもはいた。
私は洋服タンスの下から子どもを引き出した。
偶然に出来た、洋服タンスの空間で子どもは助かった。
タンスのドアが直接顔等に当たっていれば、今頃大変なことになっていたろう。
同じような事例を他でも聞いた。
家の中は、倒れた家具やそこからはみ出したもので、足の踏み場もなかった。
・・・・・
・・・・・
私が勤めていた中学校は、自宅から2キロ程のところにある。
9時頃、学校へ行った。街では、ほとんど人影を見なかった。
学校の被害は職員室の机の上に置いてあるものが床の上の散らばっている程度だった。
数人の教員が学校へ来た。早めに家へ帰った。
家のまわりの一戸建ては、ほとんど全壊だった。
一階部分がつぶれた7階建てマンション、高架がつぶれてしまったJR線、全壊した学校もあった。
電気、ガス、水道は止まった。電話は不通だった。
(ところが)、家屋内を片づけていた時、繋がらないはずの電話が鳴った。(奇跡的だった)
妹からの電話だった。
妹の家は神戸の西にある。地震の被害はなかった。
妹の家へ避難した。テレビで長田の火事の様子を中継していた。
その時、郷里の弟から「父が亡くなった」という電話を受けた。
初七日まで、淡路島にいた。
ーーーーーー
・学校は避難所になり、200名位が避難ししていた。
私は、二日に1回(学校での)泊まりをした。
家族は郷里に避難させていた。家には誰もいなかった。
避難所の食事は、朝・パンとジャム、あるいはバター、時々ジュースがある程度だった。
夜も朝と同じだった。昼は出なかった。
(昼どうしていたか、覚えていない。とにかく工夫して何かを食べたのだろう。覚えていない。)
ご飯ものが欲しかった。
おにぎりが出てきたのはだいぶ後だった。
風呂に入れたのは、1カ月以上経った後だった。
六甲山にある宿泊施設、有馬温泉にある簡保の宿などが、無料で開放され、利用させてもらった。
・避難所には、避難者・ボランティア・行政・教員・の4者が生活していた。
教員は職員室に居たが、勉強どころではなかった。
家庭訪問、学級通信の制作、疎開している生徒への電話入れを行った。
クラスの2割が疎開していた。
家庭訪問は、親からものすごく喜ばれた。
・ボランティアのリーダーは学生であった。
3月末、避難所が閉鎖されるまで、リーダーは、一度代わったが、学生だった。
街で色々なボランティアを見かけた。
「おにぎりあります。声をかけてください」、と書いたゼッケンを付けて、おにぎりを配り歩いている人。
小学生の子供と一緒にほうきとゴミ袋を持ち、道路を掃除していた親子。
停電で信号が停止している交差点で交通整理をしていた若者。
震災の中で、ボランティアの原点を見た様な気がした。
・ボランティアについてだが、希望者は多くいた。電話が学校へかかってきた。
希望者への案内所のようなものが必要と感じた。
・支援物資についても、学校へ直接物資を持ってきてくれる人もいたが、中に不必要なものが少なからずあった。
何処か、まとめるところが必要と感じた。
・支援物資について、受け取ってはならないところ、はっきり言って組関係だが、そこから届けられていて、校長以下取扱いに苦慮したこともある。
学校へ週刊誌の記者が泊めてくれ、と言ってきた。
震災の取材と思っていたら、そうではなく組とか団体への取材だった。
そういうこともあった。
・私自身も被災者であるが、避難所の側の人間でもあった。
避難者への配慮が欠けていた面もあった。
被災者の代表が、「テレビを見せてほしい。大震災特集がある」と言ってきた。
見る時間を守ることを条件にテレビのある理科室を解放した。
「大震災特集」が終わっても誰一人席をたとうとしなかった。
何も言わず30分位そのまま見てもらった。
避難所では、娯楽が極端に少ない。
時々、歌手や落語家が慰問に訪れた。
それはそれで意味があったが、テレビのことを何故思いつかなかったのかと、その時思った。
・・・・
あるおばあさんが、「やっと仮設住宅が当たった」と喜んで報告に来た。
その時の笑顔が忘れなれない。
ーーーーーーーー
・避難所は3月末で解消し、4月から新学期が始まった。
校内での問題は、PTSD問題、保護者の失業問題だった。
学校へは、1~2名の復興担当教員が加配された。
ほとんどの復興担当教員にとって、(当時)PTSDは始めて聞く言葉だった。
手探りで生徒のケア―をしなければならなかった。
・私の場合、比較的良かったと思われるのに、美術家の教員と一緒に行った「大きな絵を書こう」という取り組みだった。
運動場に模造紙を貼り合わせて、大きなキャンバスを作った。
各クラス、そこに好きな絵を描かせた。笑顔があった。
楽しい行事も増やした。
2年後、神戸で特殊な少年事件が起きた。
此の事件、震災の経験を踏まえ、「子供達に教え込むのでなく、子供たちに自分で考えさせよう」「地域で子供たちを見守り、育てよう」、ということになった。
トライヤルウィ-クという一週間の職場体験を取り入れた。
子供たちは楽しんで取り組んでいる。
親の収入減は、就学援助数が増えている。
・当時復興に少なくても10年掛ると云われていた。
高速道路、JR,地下鉄は、その半分(約5年)で元に戻った。
私の退職当時勤めていた学校の周辺では震災後15年にして広い更地にやっと家が建ちはじめた。
*〈復旧、復興というとき、問題点もあらわになってきた〉
・東灘区森南地区、市は住民の知らないところで再開発計画をたてた。
問題になったのは地区を東西に貫く広い道路が計画されたことだった。
この地区の南には国道2号線が走っている。
住民は道路が建設されたら、2号線の渋滞を避け車が住宅地に入り込むことを心配した。
行政は勝手に線を引っ張った。
住民は粘り強く交渉し道路工事は撤回させた。
・私の家から六甲アイランドの北側のコンテナ―バースが見える。
コンテナ―バースにはガントリークレーンが2基設置されていた。
しかし接岸しているコンテナ―船はほとんど見なかった。
コンテナ―船の大型化のため水深の浅いバースは使い物にならなかった。
震災でクレーンがこわれたが、再設置された。
不要のモノを元に戻すのが復旧なのか。
今はこのクレーンは取り外されている。
税金の無駄遣いだ。
・大赤字の神戸空港、復興計画の中に「防災の拠点」として取り込まれた。
ポートアイランドや六甲アイランドは地震によって液状化や地盤沈下が起った。
空港島はそういうことは起らないのであろうか。
空港島からの連絡橋は大丈夫なのだろうか。
復興と関係のない神戸空港建設が復興計画の中に取り込まれてしまった。
・海岸を通る地下鉄。人がいないが、マンションを建てれば人が来ると言って通した。
この地下鉄海岸線は震災復興のため建設された。
予算は、2000億円だ。
ラッシュ時でも座れることで有名だ。
大赤字だ。
行政は、公共事業という視点からしか「復興」を考えられないのだろうか。
・震災を風化させないために「震災の現場」をもっと多く残すべきだ。
神戸の震災を何で想像するのか。
現場を見て教育していく。そのためにも残すべきだ。
現在残されている所は、メリケンパークの破壊された岸壁だけだ。
金が掛っても残すべきだ。
*【最後に震災と平和の関係について】
・「直接的暴力」の無い世界。
・「構造的暴力」の無い世界。
・「文化的暴力」の無い世界。
この三つの暴力が無くなってはじめて平和になるというのがガルトウング博士の考えだ。
日本国憲法との関係でいうと、第9条は直接的暴力に係わる部分だ。
25条は、構造的暴力に係わる部分だ。
憲法で保障された25条に係わる権利を制限されている被災者は多い。
さらに居住の自由や職業選択の自由も奪われた人も多い。
被災者は構造的暴力さらされている。
現在、日本は放射能被害にさらされている。
これがなくならなければ平和とはいえない。
原発の安全神話は、文化的暴力ではなかったか。
・この暴力をなくすことが平和につながっていくことになる。
(長い拍手)
――――――――――――
●報告 3
*「福島の原発被害とその対応について」*
地理学科1969年入学・福島県在住 K・M 氏
(K氏は、卒業後福島県で高校教師を定年まで勤めた。
黄木氏談:
・K氏は、当初「今話す気にはなれない」と言っていた。
それがある日、急変した。東電への怒り?
オレにしゃべらせろ。30分話されろ!になった。
舌鋒鋭く約1時間話した。
「東電の想定外はウソ!」で、ボルテージがあがった。)
ーーーーーーー
*K・M氏の報告
(メモ他)
・私は、浪江町請戸で生まれ育ち27歳までここで過ごした。
請戸まで地理学科の友人が多数訪れてくれた。
請戸は白砂・青松で有名だ。
福島県の東端になる。
私の家は代代漁業で生計を立てて来た。
私の祖父の代、私が中3の時まで、漁業だった。
その後を継ぐ人がいなくて漁業は終わりになった。
・福島県は相当の発電県だ。
地図で説明する。
左側の只見川水系、ここが一番の発電地帯だ。
戦後、巨大ダムが建設された。
火力を除くすべての発電形態がある。
つまり、ダム式・水路式・揚水式・地熱発電だ。
その次が、日橋川水系だ。水路式がたくさんある。
大川水系には大きなダムが一つで、発電量は他ダムに比べて少ない。
このように会津は主として水力発電だ。
・これに対して、浜通りは原発が集中している。
地図上、発電所は①~⑦まである。
⑦は建設予定地だ。
③と⑦の間に請戸があり、私の部落だ。
原発から直線で4・5㎞だ。
海水浴で浜に出ると原発の煙突が見える。
今回爆発で吹っ飛んだ屋根が見える。
ーーーーーーーー
〈資料・福島県の地図・浜通り発電所の説明〉
①相馬共同火力発電ー東電・東北電力、50%づつ・現在停止中・石炭)
②原町火力発電ー東北電力・現在停止中・石炭)
③福島第一原子力発電―東京電力
・1号機 46,0万KW
・2号機 110,0万KW
・3号機 78,4万KW
・4号機 78,4万KW
・5号機 78,4万KW
・6号機 110,0万KW
(事故!停止中!3号機はプルサーマル)
・7・8号機 建設準備中ー事故後建設中止
④福島第二原子力発電―東京電力
1号機・2号機・3号機・4号機ー事故後いずれも停止中
⑤広野火力発電所ー東京電力
1号機 60万KW・2号機 60万・3号機 100万・4号機 100万・5号機 60万
いずれも停止中であったが、7月上旬、2号機・4号機が復旧し運転再開。
なを、6号機のみ石炭、他は石油。
⑥常磐共同火力―東京電力・東北電力
⑦浪江・小高原子力発電ー(東北電力・平成14年以降建設予定)
*参考:福島県の使用電力量(平成21年度) 15,018百万KW
福島県の最大水力発電量(平成21年度) 34,613百万KW
・福島県だけを考えれば、最も安価な水力発電だけでまかない、
さらに他県にもまわせる!・
ーーーーーーーーーーーー
(話の続き)
・(兄の家族が浪江町に住んでいた)。
3・12、第一原発の爆発が起った。
地図上の矢印は、兄達の逃走経路だ。
兄夫婦、その長男夫婦、次男夫婦、それらの子供たちが逃げた。
最初は、浪江の避難所に逃げたが、すぐにここは危ないということになり二日目に津島に逃げた。
津島は、父の出身地だ。父は婿でここの生まれだ。
しかし、ここも危ないということで、川俣の親戚の家に逃げた。
さらに川俣も危ないと、郡山の私の家へ来た。
此処までの経路を見ると、放射能が広がって行く、その流れの方へ逃げている。
危険な方へ逃げている。
(*多くの人がそうだった)
・私の家へ、一番多い時で9人が避難した時がある。
ここで、1か月居て、北塩原に行き、本宮他でアパートを借りて住んでいる。
・・・・・・
・今回、一番問題になっている福島第一原発だが、ここに建設が決まったのは、私が高校1年生の時だ。
ここは元陸軍の飛行場で原野だった。
戦後、国が此処を西部=国土計画に払い下げた。
高校時代は、春の遠足は全学、全クラス、この原野へ来た。
バレーボール、ソフトボールをするのが常だった。
東電が原発を造る時、候補地は他にもあったが、土地買収が簡単だというか諸々で、西部の土地買収になったようだ。
高校2年以降、この原野への遠足はできなくなった。
他へ行ったが、狭い所でソフトボールもできなくなった。
原発が完成したのは、私たちが大学の時だ。
ーーーーーー
・私の田舎である請戸は地震・津波・放射能の三重苦だ。
大地震がある二日前の9日に地震があった。
津波警報が出て、みんな逃げた。
ところが実際は津波は来なかった。
この事があり、油断もあった。
11日の津波は、約10メートルだ。
2ページの斜線部分が津波が来たところだ。
(*請戸の戸数475・全部流出
請戸の住民、約2000名・うち死者行方不明者184名、
流された舟、自動車、家屋、瓦礫の山)
地図上、お城マークのある所は、私の山林だ。
見てきたが、自動車が17台流されてきていた。
道路は通れるようになったが、瓦礫はいっぱいだ。
・津波被害の中で救いだったことは、小学校で死者がでなかったことだ。
請戸小学校、80名中一人の死者も出なかった。
教師の指示に従って訓練通り西側に丘陵に逃げた。
車イスの子供もいたがみんな助かった。
・かわいそうな例は、PTA会長の子供さんの場合だ。
会長夫妻、その父母、みんな流されて亡くなった。
(子供さんは、学校に居て助かった)
その子の唯一の親戚は北海道にいた。
担任は子供を新潟まで送った。
北海道の親戚はフェリーで新潟まで来てその兄妹を引き取り預けられた。
こんな悲しい例は、これからもまだまだでてくると思う。
これまでに分かっているのは避難所へ逃げた人で町が把握しているのみだ。
それ以外、つまり親戚や知人宅などに移り住み町に連絡していない人はわからないからだ。
ーーーーーーーーー
・・・・
・今、建物として形が残っているのはマリンパーク浪江・請戸小学校・漁業協同組合・魚市場位だ。
・舟も大きな被害を受けた。200槽はあった。
ほとんどの人が舟を持っていた。登録してあるトン級より大きな舟を持っていたように思う。
原発の補償金で買ったものだ。
「原発から温排水を流す。魚がとれなくなるかもしれない。放射能が混ざるかもしれない」、そういう説明でもらった
補償金だ。
わが家は祖父の代で漁業を止めたから東電かほらはなにももらっていない。
40年前になるが、その当時、1軒の漁業者当たり、500~600万円の補償金が出た、と聞いている。
今の金額に直したら、相当な額だろう。
・原発設置に対する反対運動は当初強かった。
東電は、これを切り崩していった。
やりかたは、先ず賛成者を使ってやる。
下請けの会社を使う。
例えば、東電関係の側溝工事を行う。
この時工事を受けた下請の会社が原発反対者の切り崩しに動いた。
東電は自分の手を汚さないでやる。
・反対者への嫌がらせが続いた。
反対者の家の前に、共同墓地にある遺体運びの荷車(手動の霊柩車)が置かれていた。
反対者の家の前に、糞尿がまかれた。
この嫌がらせをやる人達は、陰で金をもらっていた。
合わせて、東電の接待攻勢が続いた。
住民は、原発視察に招待された。
当時は東海村にしか原発はなかった。
東海村へ連れて行かれた。
終了後、飯坂温泉、岳温泉、土湯温泉で一泊して帰ってくる。
村のほとんどの人が招待を受けている。
・請戸集落は部落中ほとんどが斬り崩しに遭遇した。
反対者の巨頭に、T,エイジとI,エイジがいた。
皆から、二人のエイジと云われていた。
此の二人は大の仲好しだった。
頭は良い方ではなかったが短気でカットすると何をするか分からないところがあった。
それで、嫌がらせをする側からも恐れられていた。
やがて二人は死んだ。
反対運動もしぼんだ。
・原発が稼働した。
心配された事故もなかった。
放射能漏れもなかった。
反対していた人も多くは補償金をもらって賛成者になっていった。
3号機、プルサーマルの時は、普通の原発より補償金は高く、漁業者及び船主は1000万円~2000万円だったと聞いている。
*今回の原発事故の言い訳を、東電は「想定外だった」と言っている。
冗談ではないと思った。
意図的に想定しなかったか想定できなかったかのか、のどちらかだ。
何十年も前から想定して、危険を言っていた人はいたのだ。
・私は高校生の時、東電の説明会に出ていた。
東電はその時、「原発は地域住民のため、二重、三重、四重に安全措置を講じているから大丈夫だ。
1000年に1回の大地震にも大丈夫だ」と言っていた。
現実は、40年後の地震でパーになった。
ーーーーーーーーーーー
*私は4人兄弟だ。
全員結婚している。全部で8人になる。
福島、近県にいる。
原発意識を紹介する。(レジュメ参考)
(兄、姉、本人、弟・3男1女の兄弟。それぞれ結婚している。
学歴は8人全員大学卒。4人国立大学・4人私立大学。
職業:教員、県職員、役場職員、電力会社、主婦:元も含む)
・8人のうち、原発反対者は私と私の妻と二人だけだ。
あとは、程度の差はあるが原発賛成だった。
正月などに顔を合わせると何時もケンカをしていた。
いま、職場の幹部で原発推進派だった兄弟は避難生活をして、しょんぼりしている。
・「勉強のできる奴と頭がイイ奴は別」だということだ。
ーーーーーーーーーーー
*最近の事だが、色々あった。*
・私の母校、福島県立双葉高校が存続の危機だ。
建物の被害を受けたうえ、地元の中3生徒減少、そして中学生も双葉高校を選ばないというのだ。
2週間前、緊急の同級会を開いた。
参加同級生の総意で福島県当局に「双葉高校存続要望書」を提出した。
しかし、住民がいない。むずかしいところだが。
・東電は「震災二日目にベントが開いたから、それを受けて関係者に逃げろと言った」と発表しているが、それはウソだ。
3・11 P,2:46 に地震が来て、その日の19時には、東電関係者には「放射能汚染を避けるために逃げろ」の指示がでていた。
*
・浪江町長(馬場) -高校の時の同級生だ。
・双葉町長(井戸川)-高校の先輩だ。
・広野町長(山田) -高校の同級生だ。
三者三様だ。
高校時代、秀才だった奴。
高校の時、運動部で乱暴者だった奴。
危機に遭遇して、自分の考えで方針を出し町民と復興に全力を挙げている。
(平時には泣かず飛ばずだが)、こう云う時力を発揮する奴がいるものだ。
(長い拍手)
ーーーーーーーーーーー
*K氏の資料*
・東京電力福島第一原子力発電所の主なトラブル・事故
(下記は、明らかになった大きなトラブルで、小規模なトラブルは建造時からあり、ほとんど隠されてきた)
▼1976、4・2 (2号機)
構内で火災が発生したが、外部には公表されなかった。
しかし、内部告発により事故の発生が明らかになり、告発から1ヶ月後に東電は事故の発生を認めた。
東電は、溶接の火花が掃除用布に燃え移ったと説明したが、実際にはパワープラントのケーブルが発火していた。
偽装のため、東電社員がダクトの傍らでボロ布を燃やした。
▼1978,11・2 (3号機)
日本で最初の臨海事故とされる。
この事故が公表されたのは、事故発生から29年後の2007年3月になってからである。
事故の詳細は発表されていない。
▼1990,9・9 (3号機)
主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。
INESレベル2.
▼1998,2・22 (4号機)
定期検査中、137本の制御棒のうちの34本が50分間、全体の(25分の1)抜けた。
▼2000、7月 (1~6号機)
過去の自主点検検査記録などのデータ改ざんが行われていたことが内部告発によって発覚した。
2002年になって東電もデータ改ざんの事実を認め、社長以下、東電の首脳陣が辞任した。
▼2010、6・17 (2号機)
電源喪失、水位低下事故。3号機にプルサーマルを導入しようとした矢先、2号機で冷却機能不全になる事故が発生した。
▼2011,3・11 (1~6号機)
地震、津波により、レベル7、苛酷事故。
”想定外の事故”と当初、東電は言っていた。
ーーーーーーーーーーーーー
(各地の原発でも事故は発生している。隠されているモノもある。)
―――――――――――――――――
●閉会のあいさつ
哲学科 1967年入学 小木曽真司
・本日は、東日本大震災で起きたこと、それがもたらししたこと、その具体的な話を聞くことができました。
全容は膨大であるとしても、一つ一つの具体が貫かれていたと思います。
実は、本日、午前にかつてサークル活動を共にした方の墓参に行ってきました。
(Y・Mさん:1970年社会学部入学)
ご主人のお話の中で、「(病気の進行が早くて)本人も、そういうつもりではなかったと思う。」という言葉がありました。
人の人生において、夢や希望から日常の生活スタイルまで、「つもり」が断ち切られることは、本人にも周囲にも無念さを残します。
「天災」は、一方的、暴力的に、そして広範に人々の「つもり」を引っさらっていくものです。
いつ起きるか分からないことに対しては、経験から学んだ知恵や科学的な知見を少しでも役立て、防波堤にすることかと思います。
起きてしまったならば、人の思いを網の目のようにつなげていくことかと思います。
しかし、「天災」でなく「人災」ということについては、私たちは考えなければならないことがあると思います。
「朝日歌壇」を見ると、最近これらの話題がおおくなっています。
二つだけ、紹介させてもらいます。
『ふるさとは 無音無人の町になり 地の果てのごと遠くなりたり』
『敗戦など ある筈なかりし神国が 又もつまづく原発神話』
とくに、後者の歌は、わが国における時空を超えた「人災」の暴力性を撃つものです。
ひとにぎりの人間による作り話が、今回の「原発安全神話」でした。
そして、かつての軍国主義でした。
人が人の生殺与奪を握ることを「人災」とするなら、私たちがかつて闘った学園における暴力も、その延長線上にあると思います。
「人災」を元から絶つこと、このことを、改めて考えさせられました。
(長い拍手)
――――――――――――
●8月25日(木) 納涼会を行う。
場所: 歌声喫茶「ともしび」
午後5時30分から。
9人集合。
T・U・Sとは、42年ぶりか。
S氏は、ちょっとした会社の専務になっていた。
しかし、歌はうまい。
ロシア民謡専門だが。
ーーーーーーーーーーーー
・2011年の8月を終わろう。
« 「東日本大震災と平和シンポジウム」(主催・法政大学同窓生地理学科9条の会)を聞く。 | Main | 「党創立89周年記念・納涼の夕べ」(主催:日本共産党荒川地区委員会・荒川日本共産党後援会)へ参加する。 »
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- 「TPPから日本の食と暮らし・いのちを守り『交渉参加表明』を阻止する国民集会」(日比谷野外音楽堂)・へ参加した。(2012.05.20)
- 福祉国家構想研究会講演会・渡辺治(一橋大学名誉教授)・二宮厚美(神戸大学名誉教授)・を聞く。(2012.05.16)
- 「口元チェック あほかいな」・(東京新聞)・を読んで、思い出したこと。(2012.04.07)
- 「東日本大震災から1年」-新聞他から写しておこう。3回目かな。(2012.03.30)
- 東日本大震災から1年=新聞他から書き写しておこう。(2012.03.29)


Comments
Much appreciated for the information and share!
Nancy
Posted by: Nancy | September 27, 2011 at 10:09 AM