「太極拳・交流大会 表演会」(東京中国武術協会) へ参加した。
2012年2月11日(土・祝日) AM9:30~PM4:30
①「THE☆表演会
第17回 太極拳交流大会
第22回 表演会」
会場:BumB東京スポーツ文化舘メインアリーナ
主催:東京中国武術協会
へ参加した。
*第一部 第17回太極拳交流大会
全部で39組が参加。
24式、32式、42式、楊式、陳式、呉式、
太極剣、楊式13勢刀、扇子前、、、。
(*これだけ揃うと、やはり壮観だ。)
*75歳以上の高齢者の表彰
92歳の女性をはじめ35人(女20人・男15人)が紹介され、表彰された。
女性の方が多い。今日の参加者もそうだが。
(拍手)(*姿勢が良い。)
*第二部 第22回 表演会
・選抜された5組が表演ー(さすがだ)
・ジュニア表演ー少年チーム4組が演武
・コーチ表演ー5人が模範演武
・特別表演ー(協会名誉会長、顧問、理事)6人が模範演武
・客演
(王建軍老師ー九節鞭)
(李自力老師ー楊式太極拳)
(*老師とは名人以上という意味かな。)
―――――――――――――
②日中友好協会荒川支部
「2012年 新春のつどい」へ参加できなかった。
夜6時30分・アクト21(荒川区尾久)で行われた。
誘われて、「出席する」と返事していたのだが。
昼の太極拳で少々疲れてしまったのだ。
BumBの体育館は、節電で寒かったし。
ザンネン。
――――――――――――――
③「2・11さよなら原発1000万人アクション全国一斉行動 in 東京」
(主催:同実行委員会)
場所・代々木公園
(*参加した友人から、メールと写真が送られたきた。)
様子を、「しんぶん赤旗・日曜版」(2012年2月19日・32面)が伝えている。
写させていただきます。
(見出し)
「原発いらないー
大江健三郎、澤地久枝、落合恵子の3氏訴え」
・・・・・・・
東日本大震災1周年を1ヶ月後に控えた11日、作家の大江健三郎氏ら著名9人が呼びかけた「2・11さよなら原発1000万人アクション全国一斉行動 in 東京」(主催、同実行委員会)が、東京代々木公園で開催されました。
時折、冷たい風が強く吹き付けるなか、1万2千人が参加しました。
壇上から呼びかけ人の3人が発言しました。
大江氏は、
「処理技術を持たない核廃棄物を後世に残すことは、人間のモラル(道義)に反する。
私たちは原発再稼働に抵抗しなければならない。
これは、いかなる立場の違いも超えて根本的に重要な倫理です」とのべました。
(*拍手)
作家の澤地久枝氏は、
「すべての命あるものに私たちは責任を負っている。
どんなことがあっても原発はとめなければなりません」と訴えました。
(*拍手)
作家の落合恵子氏は、
「収束していない事故を”収束”と言った人や、原発を輸出しようとしている人たちに『ノ―』をつきつけよう」と呼びかけました。
(*拍手)
・・・・・・・・
夫を福島に残し、小学生の子供と東京へ自主避難している増子里香さんは、
住宅や就職を探す困難さや、子供の不安を涙ながらに語りました。
「私たち被災者は、さざ波にくるくる回る枯れ葉の小舟のよう。
手にはオールもありません。
これ以上、福島の子供に悲しみを負わせないで」と訴えました。
(*・・泪、、、。ウ~ム。)
ーーーーー
(*参加した友人が話した。
色々な人がいたよ。
法政の旗を見て、話しかけてきた人がいた。
彼は言った。始めて会った人と思ったが。
”40年ぶりだ。
法政の旗を見てなつかしくなった。
オレは、、、、卒業式の時。武道館で行われた、、。
あの時、警察の留置場にいた。逮捕されて。
3里塚でだ。
40年前だ。・・・”
そのうち、また。と言って分かれた。)
――――――――――――――――
④今日は、「建国の日」、でもある。
昔読んだ本を引っ張り出す。
3冊。
また、写しておこう。
(一冊目)
★永原慶二(ながはらけいじ)
「歴史教科書をどう作るか」
(岩波書店) 2001年・全245頁
(その中から一部)
・・・・
歪められた歴史に夢を託す、というのは危険なことである。
歴史は楽しみのための物語ではなく、国民や国家の現在・未来を見定めるための、たしかな学問成果に裏付けられた認識でなければならないからである。
史実を歪めた歴史物語をそのまま歴史教科書にもちこむことは、どれほどおそろしいことか。
もしそのような教科書によって教育されれば、若い世代の人々は、知識も心も歪められ、未来に向けての冷静・的確な判断をもつことが出来なくなってしまうだろう。
世界的に定着している歴史認識に背を向け、自国中心の独善的な優越感やナショナリズムに心を奪われてしまえば、国際的な友好・平和の民とはいえない大量の若い国民が生み出されるおそれがある。
・・・・・・略・・・・・・
戦後の半世紀余りにおいても、戦前の皇国史観に根をもつ国家主義的思考は、文部省の検定やその背後にある保守派支配層に根強く生きつづけ、「自分の国の悪かったことを書くな、歴史を明るく書け」といって種類の要求をくりかえしてきた。
・・・・・・・・・
・明治以来の国家主義歴史教育観
・・・・・・・・
・・・・・・・・
・29頁 (皇国史観とは何か)
さて、改めて皇国史観とは誰によって形成されてきたものなのかを問い直すと、正確に答えることは存外むずかしい。
普通、平泉澄氏(東京帝国大教授・歴史学)をその代表とし、昭和初年から次第にその形を明らかにしてきたと見られている。
・・・・・・・
しかしここでは、個々人の思想・歴史観に立ち入ることはやめて、もっとも煮つまった皇国史観「国史」像の典型として、1937(昭和12)年に文部省思想局が編集した『国体の本義』と、1943(昭和18)年文部省編纂の『国史概説」(上下)をとりあげ、これを手掛かりにしてその特徴を追ってみよう(文部省自身が直接に、日本歴史の決定版=「正統の国史像」を国民に提示すると云うこと自体も、いちじるしく権力的発想のあらわれである)。
・・・・・・・
・・・・・・・
1937年の時点で本書がつくられたのは、
・・・・
当時の思想界には、「民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義が侵入」しており、それらは「究極に於いてはすべて西洋近代思想の根底をなす個人主義に基づくもの」で、わが国の伝統と思想とは相容れないため、それが思想の「行詰り」「混乱」をもたらしている。
したがって、それを克服するためには、国体の顕現としての日本の歴史を明らかにし、国民の国体に対する自覚をうながすことが緊急不可欠である。-
皇国史観はそのような使命感をふまえた国定の歴史観として登場し、およそつぎのような主張を強烈におしだしている。
〈国体論と皇国史観〉
第一は、「国体」という特殊な価値を体現している国家に対する絶対的優越感とも言うべき思考である。
・・・・・・
・・・・・・
したがって皇国史観はその立脚点において、はじめから史実を無視した独善性によって特徴づけられていたのであるが、国体が永遠に変化せず、しかも独自の価値をみずから体現しているとする点で、まことに特殊な思考・論理をとるものといわなくてはならない。
この点の意味は、丸山真男が論文「超国家主義の論理と心理」で、戦後いち早く指摘したところである。
氏によれば、明治以来の日本「近代国家」は、思想・道徳・信仰等人間の内面的世界のことがらは個人の問題であり、したがって国家はそれに対してはニュートラル(中立的)であるべきだというヨーロッパ近代国家の基本性格とまったく異なり、「国体」を通じて国家がみずから特定の価値を独占しているというのである。
・・・・・・
・・・・・・
〈皇国史観の民衆像は?〉
第二に、皇国史観の立場からは、民衆は忠孝一体の論理で、家→国=天皇に帰属することだけが価値とされ、それにそった事実以外はまったくかえりみられるの値しなかった。
・・・・・・
・・・・・・
〈他民族支配の肯定〉
第三の特徴として、皇国史観は、自国中心主義と表裏一体の関係で、帝国主義的侵略や他民族支配、戦争などに対しては一貫してこれを肯定賛美している。
・・・・・・
・・・・・・
〈非科学としての皇国史観〉
第四に、以上のような考え方や歴史解釈に特徴づけられる皇国史観は、近代科学としての歴史学的認識とは異質のものであって、わりきっていえば、天皇制国家と日本帝国主義とを正当化するためのイデオロギーにほかならない。
・・・・・・・・
そうした状況のなかで、皇国史観は合理主義的諸思潮に対し、みずからも一つの科学として立ち向かうのではなく、権力と結びつき、権力を合理化するイデオロギーとして、みずからの存在を強めようとした。
それゆえに皇国史観は、本質的に、非科学的であった。
それは神勅や天孫降臨、神武天皇から日本の歴史の叙述を開始すると云う点だけの非科学性ではない。
日本の歴史を究極的にはすべて「国体の顕現」の歴史と見、日本帝国主義の侵略行動を「皇化」と説明することによって、歴史の学問的認識の道を基本的にとざしてしまっているところに非科学たる基本があるのである。
(*なるほど)
・・・・・・・
・・・・・・・
(~そろそろ終わりにしよう~)
〈教育と学問の分離〉ー「教育と学問は別だ」
・・・・・・・
すでにふれたように、「国体」や「国体の精華」の歴史的検証の試みとして形成されてきた皇国史観は、明治以来、学校教育とくに「国民教化」を目的とする義務教育課程の歴史教育と結びつき、教育と学問を切りはなすという基本枠組に立っていた。
そこでは真理の探究は大学にまかせる、
義務教育は真理を教える場ではない、「教化」教育によって国体に対する信念(信仰)をもつ「国民」「日本人」を作り出す、ということが基本目標とされていた。
(*いわゆる、叩きこむ、信念を叩きこむ教育ですね。暴力的でもある。)
(223ページ)
・この学問と教育の分離という考え方が、もっとも露骨に示され、教育の内容を規定したのは歴史教育です。
いわゆる「万世一系」の「国体」の優越性といわれるものが天皇制イデオロギーの基礎ですが、これを子供たちに信じこませ、「国民」として「教化」していくためには、日本の歴史は神話の語る「神勅・天孫降臨」から始める必要があります。
考古学的な考察から始めるわけにはいかないのです。
そこでとられたのが、大学は学術研究の場だから研究の自由は認める、しかし小学校は別だ、という二本建て路線でした。
もちろんそうはいっても、考古学が発達して神話を史実とするような物語・信仰が解体すると困るわけです。
そこでなんと敗戦後まで、東京帝国大学には考古学科がおかれていませんでしした。
ちなみに同大学文学部には私の学生の頃(1942年~)、17学科がありましたが、考古学科と露文学科はおかれていませんでしした。
・・・・・・・・・・
(*ハァ~!分かりやすいことで、、、。
露文の方は、ソ連社会主義革命との関係で。考古学科は、皇国史観との関係で、ですね。)
*永原慶二(ながはらけいじ)
1922年 中国大連に生まれる。
1944年 東京大学国史学科卒業
一橋大学教授、日本福祉大学教授、和光大学教授を歴任。
―――――――――
【二冊目の本】
・・・・・・・・
・・・・・・・・
最初に日本古代史研究の一般的な問題を、少し申し上げてみたいと思います。
終戦までは、日本古代の歴史研究上には、一種のタプ―すなわち口にすることを禁じられていたことがあります。
それはご承知の通り古事記・日本書紀などの記事とか、皇室に関する伝統的な歴史的解釈に対する批判で、これは非常な圧迫を受けたわけであります。
正しい真理を追究する学問が、一部の政治的勢力の圧迫によって歪められることは、国民の最も大きな不幸であります。
しかしながら良心的な学者は、表には出さないでも、確実な歴史的事実と不確実な事柄とをはっきりと区別して、学者としての節操を保っていたのであります。
終戦時には一時に言論の圧迫がとれたので、反動的に、自由というより、むしろ、めちゃくちゃな議論が行われました。
歴史の研究においても同様で、現在でもなお一部においては特殊な色眼鏡を通じて見た歴史著述やジャーナリスティックな歴史の本がでておりますが、大体において研究も軌道に乗り、正しい方向に進みつつあるように見受けられます。
終戦後の日本古代史研究上における一般的特徴は、大体次の通りだと思います。
第一は、終戦前の古事記その他の日本古典の鵜呑み主義の反動として、これらの文書資料を捨て去り、考古学的な物質遺物一辺倒とでもいうべき傾向であります。
第二は、終戦前の歴史教育では、天皇、貴族、武将など支配者や上流階層の人たちのことは詳しく語られたのに比し、一般人民の歴史についてはほとんど教えられなかったことの反動として、英雄や偉人の伝記や物語はまったく抹殺され、いわゆる社会科学の歴史が重点になり、あるいは支配者側の行動は常に悪かったような歴史記述が多かったのであります。
しかしこれらはいずれも物の一面のみを見て全部を見ておりません。
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
そこで今後の古代史研究においては、次の事柄に注意すべきであろうと考えております。
その一は、広い視野から古代を顧る必要があることです。
今のコップの例のごとく、歴史もまた上からも下からも、右からも左からも、外からも内からも、これを熟視しなければなりません。
言いかえると、支配者側からも被支配者側からも、また日本人みずからの観点からも外国人の目からもー日本古代に於いては主として朝鮮半島や中国の人々の目からですがー農民の立場からも、手工業者の立場からも、商人の立場からも奴隷の立場からも、あるいは男性の立場からも女性の立場からも、あらゆる異なった立場に立ってそれぞれの歴史を分析し、最後にそれを総合しなければならないと思います。
その二は、歴史学が今やあらゆる科学の総合的学問になったということであります。
一例をあげると、土中に埋もれていたような古代の遺物の年代を決定するにあたって、炭素の放射能を用いるわけです。
私はその専門家でないので間違っているかもわかりませんが、大気中で宇宙線によって放射能を持った炭素がつくられます。
その放射能の炭素が、約5700年の間に半減をするという原則を利用するのです。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
このように歴史学は世界の最先端を行く原始物理学をも利用することになります。
・・・・・・・・
従って今後の歴史学は、ただ人文科学の一分科という狭いわくの中に閉じこもっていることができなくなり、人文科学界と自然科学界とを股にかけて横行闊歩しつつ研究しなければならない、ということになった次第であります。
その三は、従来の日本古代史研究上における盲点を、充分究める必要があることであります。
それは何かというと、一般国民の歴史であります。
民族学会ではこれを常民ともうしております。
われわれが小さかったころ学校で習った歴史を振り返ってみるのに、たとえば仁徳天皇というと、多くの人はすぐにあの
「高き屋に上りてみれば煙立つ民のかまどはにぎわいにけり」
という歌を連想すると思います。
そしてその連想は、従来に於いては、ただ天皇が情けのある方であったという印象を受けるにとどまってしまったように思います。
その場合、その煙が何を炊いた煙か、米を炊いたのか、栗を炊いたのか、それとも、もっと違ったものを煮ていたのか。
すなわち当時の常民はどんなものを食べていただろうか。
それから、その煙はどんな家から立ちのぼっていただろうか。
そのころの常民はどんな家にすんでいただろうか。
それは天皇のおられた高殿とどんな違いがあったろうか。
またその煙は、どれくらいの地域に何本くらい立っていただろうか。
言いかえれば、当時の首都における戸数とか世帯数とか人口密度というような問題になります。
さらにもっと大切なことは、天皇が3年前に高い山に登ってごらんになったときは、煙が立っていなかった。
そこで課役及び貢物を免除したら、今度はたつようになった。
これは古事記にもある伝承ですが、では3年前にはなぜ煙が立っていなかったのだろうか。
言いかえれば、社会の食糧事情はなぜ悪かったのだろうか。
飢饉か洪水でもあったのか。
戦争でもあったのか。
それとも、支配者の経済政策や税制が悪かったのであろうか。
古事記にも、その前に、堤防工事や灌漑工事をやった記事がありますが、かかる土木事業の結果、一面、農業生産は向上したでしょうが、半面、民の間に色々の不平不満が起きたのではないでしょうか。
このようにいくらでも疑問が湧いてまいります。
ただ煙が立ちのぼっていたという、きわめて簡単な歴史的伝承を一つ取り上げても、研究者の着眼一つによって、いくらでも深く広く研究を進めることができます。
旧憲法のように天皇主権の時代には、この煙の研究もただ仁徳天皇のご仁慈ということにとどまったのであります。
むしろそこでとどめておく方が支配階層にとっては都合がよかったわけでしょう。
しかしながら今ははっきりと主権在民の原則が確立したのですから、この煙の研究もただ天皇のご仁慈だけでとどめることはゆるされないのであります。
(*拍手)
従ってわれわれは、今申したように、歴史研究のメスを常民の社会生活の奥深く突き刺さねばならないのであります。
そうすれば国民は自分達の先祖がどんなものを食べ、どんなものを着、どんな家に住み、いかに働き、いかなるものを生産したか。
そしてそれらの生活の中においていかに苦しみ、いかによろこんできたかの経験を具体的に、身近に感じることができます。
それによって国民は自らの力を知り、みずからの責任を自覚し、主権者たるに恥じないりっぱな行動ができるようになると思います。
(*!なんという!カンドウ!)
さて、その常民の中の大部分を占めるのが農民であります。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
彼ら農民の生産活動があってこそ、その上に座りえた貴族とか、武家たちの歴史のみが多く伝えられたのに、その社会活動の源泉ともいうべき真の農民の姿は、ほとんど学校教育でも教わっていなかったのであります。
最近少数ですが、柳田国男先生や折口信夫先生はじめ、われわれこの方面に興味を有する者が集まって、ニヒナメ研究会を組織しました。
ニヒナメというのは皆様ご承知の通り漢字にあてはめると新嘗祭のことであります。
・・・・・・・
・・・・・・・
(以下 略)
★三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)著
「古代オリエント史と私」
(学生社) 昭和59年(1984年)
の中の(250頁)「日本古代史におけるニヒナメマツリの問題」(昭和28年)
を写しました。
(*何十年前になるのだろう。
大内兵衛先生が、書いたか話されたか、したのを覚えていて。
たいへん、優れた内容だと。)
――――――――――――――
【三冊目は、
保阪正康 著
「昭和史の謎 “激文に秘められた真実」
(朝日新聞社・朝日文庫) 2003年】
(*ラジオで言っていたけれど、朝日の出版部の責任者は誰かに代わったのかな。)
*全301頁だけど、
その中の、(104頁)
10 帝国の光栄を保全せむことをー開戦の詔書
(114頁) 敗戦の詔勅
ーーー
(157頁)
16 民主天皇という名のシナリオ―天皇の人間宣言
ーーー
(273頁)
26 国民とともに―新天皇の「お言葉」
―――――――――――――
(東京新聞)2012年2月19日(日)・28面
作家 保阪正康さん特別寄稿 を読む。


Recent Comments