しんぶん
2012年1月15日(日)
★東京新聞 1面・トップ★
(見出し)
“こどもも「脱原発”
「世界会議 横浜に30カ国」
原子力エネルギーからの脱却をテーマに、約30カ国から集まった専門家らが、原子力の問題点について話し合う「脱原発会議 2012 YOKOHAMA」が14日、横浜市西区のパシフィコ横浜で始まった。15日まで。
・4500人がデモ行進
(*参加できなかった。)
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同日・★「しんぶん赤旗」 15面★
(見出し)
「脱原発世界会議」が開幕
ヨルダン国会議員「輸入反対」
横浜
原発のない未来をめざそうと、世界各地から専門家や市民団体が参加する「脱原発世界会議」が14日、横浜市内で開幕しました。
主催は同会議実行委員会。
3000人以上が参加しました。
「原発再稼働許すな」
笠井議員参加・「大行進に」4500人
「原発いらない」「再稼働許すな」-。
14日、横浜市内で開催された「脱原発世界会議」に連帯し、「脱原発世界大行進」が行われました。
4500人が参加し、買い物客などでにぎわう、みなとみらいの町を行進しました。
首都圏でデモなどを行っている団体や賛同する個人で構成される、「首都圏反原発連合」が主催。
集会では、日本共産党の笠井亮衆院議員が国内の国会議員として唯一参加しました。
笠井議員は、現在稼働している原発が54基のうち5基であると話すと、会場からはどよめきが起こりました。
「『原発なくせ』の声をあげて、東電はじめ電力会社、政府を追い詰めようではありませんか」と力強く訴えました。
(拍手)
・・・・・
(*収束だなんて、、、。だれもそうは思っていない。)
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★しんぶん赤旗・2012年1月1日・日・15面★
それでも
祝(ことほ)がれる年は
くるのか
金 時鐘 (キム・シジョン)
まだ明けきらぬ夜。
うす闇を透かして 事物を見る。
くろぐろと科学の驕りにうずくまった街。
家並みのはずれでほの白く尽きている
先のない道。
木が立っている。
立つしかない木が
ふるえて射すくめられているということは
故知らぬ蝉を
今に毒気の茂みで鳴かすということだ。
犬っこ一匹居つかない街で声をかぎりと虚しい叫びを上げるということだ。
けっして瓦礫ではない。
それは散らされた暮らしのかけらだ。
ねじれた窓枠に
こびりついた新聞紙。
逆さに埋もれて
もがれた人形。
割れた口につき刺さって吹く
欠けた瓶の
風の傷痕。
嘘はここでうごめいている。
心情の励ましで結び合うのは
何から何を癒すことか。
壊れてついに 静かになった物たちの上に
朝が骨も露わな建屋の屋根から射している。
それでも天外の火は年を待たず
囲んで静めた水壁の底で
千年変わらぬ青い鬼火をゆらめかしている。
どこかの空き家のちゃぶ台の上で
ひっそりたたずんでいる
ひとすじの光よ。
(*ウ~ム、、。ソーカ、、。ソーダ、、。ヨシ!
・・・・・・・
故知らぬ蝉、、。か。
魚も。
ラジオで、、、Oさんだったか、言っておられた。
、、、魚は、川の汚染、放射能汚染、、!
魚を獲るなだって。なるほど。それはいいよ。
でもだよ。川の中の魚はどうなるの。
魚は汚染されっぱなしで、そのまま大きくなって。
どうなるの!)
にんげんは・・・?
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★昨年(1月1日)のこの欄(しんぶん赤旗・文化学問)の御方は、今年はメシュウドであられるか。
(東京新聞・1月12日・夕刊 8面)
雲浮かぶ波音高き岸の辺に
菫(すみれ)咲くなり春を迎えて
ーーーーーーー
*ウ~ム。雲、雲、くも。
(ここにひっかかって。むかし読んだ本を思い出して。
それでまた、写しておこう。)
雲こそ わが墓標
落暉よ
碑銘をかざれ
出水(いずみ)特攻隊
一定の年齢に達した人ならば誰でも心の中に深い傷を持っている。
思い出したくない。
しかし忘れることのできない、ある時期の自分の姿、周りの人々の姿、その中で大きい大きい一つ。
それは私たちの年頃の者にとっては戦争である。
昭和18年、学徒出陣がきまったとき、私は音楽学校(現藝大)の生徒だった。
男の生徒が出陣するので短期卒業となり、仲のよかった人が戦地へ行ってしまうのかと思うと胸のふたぐ思いであった。
10月には神宮競技場に出陣する学生が集まってお別れの行進をし、場内は見送る女学生でうずまった。
雨の降る日であった。
・・・・・
・・・・・
12月1日。
陸軍へ入る人々の学徒出陣であった。
一歳年下の弟は学生服の肩から大たすきをかけ、新宿の駅から甲府の63部隊へ入隊していった。
弟は父母や私たちをむしろなぐさめるごとく朝食の食堂に入ってくるとき、歌舞伎の六方を踏みながら入ってきた。
そしていつもと少しも変わらぬ態度で平静に出征していった。
駅前で皆が歌っていた。
海ゆかば 水づくかばね
山ゆかば 草むすかばね
大君のへにこそ 死なめ
かへりみはせじ
胸のやぶれる思いであった。
見送りの人々と別れを惜しむのを嫌って、上官は学生たちが汽車に乗りこむと窓のブラインドをおろした。
これで当分、いや悪くすれば一生弟との縁を切られたと思うと切なくて、汽車がみえなくなるまで立ちつくしていた。
甲府の63部隊は山猿部隊とよばれるひどい部隊であった。
面会が許されるようになって会いに行ってもむしろ辛い思いが増した。
皆飢えていて寒さにかさかさの肌をしていた。
慣れぬ洗濯、訓練で指はあか切れ、弟の友人Nはそこから瘭疽(ひょうそ)になった。
「注射もしてくれずに爪をはがされてヨ―チンをつけてやがるんだから」とそれでも陽気に語ったNは昭南島(シンガポール)で戦死してしまった。
サディスティックな上官にいじめぬかれて自殺したした人も両手の指にあまる。
10日後の12月10日は海軍入隊の学徒出陣だった。
三田の泉岳寺に集合し、品川駅から海兵団入りしたが、陸軍よりもスマートな出陣ぶりで私たちの見送りの者は泉岳寺から品川駅までの長い道のりの間で別れを惜しむことができた。
私の夫はその日入隊していった学徒の一人、14期特別攻撃隊の生き残りである。
生き残った者の心の傷は私たちが想像できぬほど深いのであろう。
めったにその頃の話はしない。
阿川弘之先生はその悲しみを、いきどおりを書きつづけられている。
うったえるのもだまっているのもその苦しみは一つなのであろう。
私も、死んでいった人々、生き残った人々と同年である。
だから学徒出陣、特攻隊という言葉が私の心を今でもしめつける。
政治とは恐ろしいものだ。
まちがった政治が行われたとき、それは過失であったとあやまられてもこれは許されることではない。
沢山の若者を死においやり、国民を不幸のどん底に落としいれたかつての指導者たちの罪は深い。
終戦から30年たって、夫と私は鹿児島へ旅をした。
出撃命令のおりるのを待機していた谷山の航空隊あとをたずねて行ったのだった。
しかし、そこはマンモス団地と化し、谷山特攻隊基地を知っている人は一人もいなかった。
出水(いずみ)に行ってみた。
そこには特攻碑が建っていた。
かつての滑走路は道路になっていて、航空隊のあとはゴルフ場であった。
クラブハウスの屋上から広々としたグリーンを眺めた。
ぬけるような青い空に白い雲がぽっかり浮かんでいた。
「雲こそ わが墓標」
涙があふれた。
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石井好子
「思い出はうたと共に」 1980
(人文書院・京都市) のなかの
119ページ
「雲こそ わが墓標」より。
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
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