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November 2016

November 28, 2016

前進座公演:「たいこどんどん」(三越劇場)・を観る。

2016年10月26日(水) 午前11時30分
★前進座創立85周年記念公演★
◎井上ひさし  =作
◎高瀬誠一郎 =演出
◎いずみたく  =音楽
【たいこどんどん】(三越劇場) を観た。

*世の中 どんなに 変わっても どっこい 生きてる 君と僕!

●出演
・桃  八=中嶋宏太郎
・清之助=早瀬栄之助

・柳生啓介
・横澤寛美
・江林智施
・北澤知奈美
・寺田昌樹
・黒河内雅子
・藤井偉策
・新村宗二郎
・有田佳代
・平澤 愛

・松浦海之介
・嵐 市太郎

・津田恵一
・山崎竜之介
ーーーーーーーーーー
🌸まず、舞台上で、みんな踊っている、傘を持ったりして、衣装もなにもかも、華やか~!なのだ。
♪♪
【江戸は情婦(いろ)】 作詞:井上ひさし・作曲:いずみたく
江戸は―
とんちんかんの早合点
ちゃちゃむちゃくちゃの勇み肌
ちょっかいやっかい野次馬蓮
おっちょこちょいの
すっちょこちょいの
―おれたちの情婦(いろ)
おまえなしでは死ぬのさ

姿よき富士の山
人波しげき日本橋
越後屋の新商法
将軍様のお膝元

(注:オーオー!越後屋って、いまのここの三越かい!傘も。)

江戸は―
ちゃかしちゃがえし茶番者
だじゃやれ悪じゃれ語呂合わせ
じゃらくらじゃらけの脳天気
やんちきとんちきべっかっこうの
―おれたちの情婦
おまえなしでは闇さ

花霞む向島
大川の屋形船
高櫓 江戸しばい
触れ太鼓 江戸角力

張り強き新吉原
自堕落の辰巳芸者
乙味の品川女郎
塩見の船饅頭

江戸は―
やけのやんぱちやぶからぼう
りきみ強がり反りかえり
大ちゃきちゃきのちゃらっぽこ
ざっくばらりざっくばらんの
―おれたちの情婦
おまえなしでは狂うのさ
(拍手、拍手)
ーーーー
*あらすじは、
幇間(ほうかん)=たいこもち、の桃八と薬種問屋の若旦那・清之助が、品川小菱屋で薩摩の芋侍に刀を抜かれて海へ逃げ出す。
船に助けられたのは良いが、その船は奥羽行き、釜石港に着く。
そこからはじまって、二人で道中を重ね江戸に戻ることができたのは、9年後だった。
行った街、(品川)→釜石→遠野→盛岡→天童→新潟→柏崎→(東回りの船)→東京。
二人にとって、釜石での体験、初めてのことばかりだったが、これが決定的だった。
ここを乗り切ったというか逃れられたから、あとの困難を知恵と芸と友情で打開してなんとか帰還できたのではないか。
(釜石)
旅籠・甲子屋=おかみさん・おとき
清之助さんは、ここでぜいたくに、遊びくらしている。
江戸からの仕送りをあてにして。
おときと目明しの喜平が手組んで、甲子屋のっとりをたくらんでいる。
おときは主人を刺殺して、その罪を清之助になすりつける。
目明し喜平は、それをネタに連れの桃八を鉄山労務者として40両で売ることを清之助に約束させる。
10年間の労務だ。太鼓持ちの人にとっては想定外の過酷な肉体労働だ。
ツルハシなんて、生まれて初めて手にしたのだよ。
清之助は40両で江戸へ帰り、そのあとで桃八を助けるつもりだった。
(そうはいかなかったが)
・ぼくは、ここで、鉄山のこと、百姓一揆がおきてみんなが鉄山を焼き払ったこと、それで桃八が3年でそこを逃げ出すことができたこと、一揆の百姓が隣の伊達藩へ大挙して越境したこと、清之助が博打で40両を摩ってしまったこと、
そんなことが、自分の生まれた岩手で子供のころ年寄りから聞いた話と重なって、色々なことを思い出していた。
ーーーー
・そういえば、井上ひさしさんがお母さんが商売をしている釜石に初めて行ったのは、1953年11月、19歳のときではなかったかな。
4月に、上智大学独文科に進んで、初めての都会生活で、神経を病んで吃音になって、治療のためお母さんのところへ避難したのだ。
(時々ある。オレの高校の同級生Bは結局自死した。22才だった)
1953年=昭和28年、東京から釜石まで、カラス列車で、新幹線なんか通っていないから、何時間かかったか。
上野→花巻→遠野→釜石。全部乗り換えが必要だ。22時間ぐらい。
清之助、桃八は船だから、トンネルをくぐらないから、顔が煤(すす)で黒くはならなかったと思うけれど、結構大変だったろう。
井上ひさしさん、釜石にいたお母さんのことについては、「烈婦!ます女自叙伝」に詳しい。
ーーーー
平成14(2002)年9月20日、井上ひさしさんは「岩手県人連合会長」に選出された。
その「新会長をお迎えして」の集いが、
2002年10月25日(金)・午後6時
岩手県東京事務所(千代田区永田町1-4-1)
で行われた。
その時の井上さんの自己紹介を兼ねたあいさつは印象的だった。
内容は、ご著書の内容とかなり同じだったが、
「私の父は、戦前、、共産党員でした」とはっきり話された。
山形県小松町で、裕福な家であったが、井上さん5歳のときお父さんは死去している。
終ってから、ぼくは、図々しく、井上さんに本へのサインをお願いしに行った。
*井上ひさし
 「いとしのブリジッド・ボルドー」
 (講談社)  昭和49年(1974年) ¥630

井上さんは、本を手に取って、「あーっ!懐かしい本ですねー。ありがとう、、、」。
僕は、(「烈婦!ます女自叙伝」を含め)、「御本の内容は、本当のことですか?」と聞いた。
井上さん、「ぜんぶ、ほんとうのことです」ときっぱり話された。
いまも、目の前に、サイン入りの本がある。
ーーーー
*井上さんが釜石にいたのは3年間だった。
正確には、1953年11月(19歳)→1956年4月(22歳)、の2年4か月だ。
この間に無事、健康を回復して大学へ戻ることができた。
吃音=どもりもなくなったし、重要な2年4か月だった。
釜石時代のことはいろいろなことをかいている。
「たいこどんどん」は1975年8月作、釜石を出て19年後、41歳のときの作品だ。
桃八も3年で鉱山を脱出している。
ーーーーーー
*桃八が働かせられた鉱山、黒い血を吐きながら働いている人たちがいた。
いっしょに働いていたあの人たちはどうしたのだろう。
うまく、逃げた人もいるだろうが、大部分は死んでいるだろう。
特に一揆が起こる前、そこで働いていた人たちは、、、。
どんな人たちが働いていたか。
ーーーーーー
(外れるけれど)、
僕の生まれ育った山間部落(現:岩手県普代村)には、南部藩直轄の鉄山:「割沢鉄山」があった。
文化・文政期頃・1810~1830頃・が最盛だったというが、細々と明治期まで続いていた。
「千人からの人が働いていた」などと言い伝わっていたが、常時5~600人の労務者がいたのではないか。
ーーー
5~60年も前の話だが、
部落の外れ、村を出る道路の道端に「焼葬道具小屋」があった。
お葬式用の用具一式がそろっている。
村で死者が出ると、それを使ってみんなで葬儀を行った。
その小屋の道を挟んで反対側に土盛りがあった。
お盆になると必ず「旗紙」をつるした。
「旗紙」はお墓につるすのに、ただの道端の森につるし、みんな手を合わせた。
その土盛り、小森は「割沢鉄山」で働いていた人たちのお墓だった。
僕が、東京へ出て2年か3年か後のころだから、1967,8年のころか。
村の道路の拡幅工事・舗装化が行われことになった。
高度経済成長のオンケイが田舎まで及びはじめていた。
そのとき、道路工事のためその鉄山のお墓を整理することになった。
僕の父と、紋座したーぎ(紋座の分家:山田)の父さんがそのお墓整理の役になった。
土地所有者ということでもあった。
作業は、春にはじめて1か月以上かかった。
二人で、スコップを使って手作業で行った。
遺骨を掘り出してむしろにくるみ部落の共同墓地まで運びそこに埋めなおした。
終った後、父は寝込んだ。
疲れのせいかもしれない。
入院するほどではなかったがげっそりとしていた。
ぼくはとうじ新聞奨学生だった。
所長からお盆休みをもらって田舎へ帰った。
家へ3泊した。毎日見舞客が来た。
ーーーーー
色々な人がいた。
友達の年より:「はーアー!聞いて来ましたあ~。なにか、おめーさん、なにをしたんだべー。
何か、仏さんにぶたれたとか、なんとか、とんだ災難だったなんしー。」
(「仏さんにぶたれた」=上手いこと言うものだ。)
ーーーー
・二人だけのとき、様子をポツリポツリと話してくれた。
今でもおぼえている。
「仏の骨は、全部で200ぐらい掘り起こして運んだ。もっとあったが、道路にかからないところは、きりがないし、そのままにしておいた」
(割沢鉄山は、弘化4年=1847年と嘉永6年=1853年、2回の百姓一揆で焼き払われている。
遺骨は100年超昔のものだった。)
「男の骨と女の骨は、違いがすぐ分かった」
「女の骨のそばに子供の骨があった。」
「むぞかった」:(むぞい=かわいそう=方言)
「女のなかで、指輪をしている者もいた。どこから来て鉄山で稼いでいた者だべーなー。」
(江戸時代、南部藩で指輪をしている女性、いたのだろうか。
どんな指輪だったのだろうか。
父は、まちがいなく指輪だったと言った。)
ーーーーー
*博打*
子どものころは、カヤブキの家だった。
2階建てで結構広かった。
1階の半分は牛が住んでいた。5頭はいたのではないか。
両親と長姉、長兄4人は隣の新しい家に住み、僕たち2、3、4男は牛と祖父母と一緒に古い方に住んでいた。
食事の時だけ一緒だった。
昭和29年12月6日、部落で火事があった。
5軒全焼して、6軒目の我が家の古い方が半焼した。
それで南部藩政時代から続いた家屋は取り壊された。
6歳のときだった。
覚えていて、いまでも時々思い出すことがある。
あの家の2階に梯子段で上がって、上がり終わって、上からその梯子を引っ張り上げていた。
1階と2階は断絶した。
しかし、その梯子を裏の石段にわたすと、そのまま外へ出られるようになっていた。
2階の部屋は畳が敷いてあった薄暗くて仏壇があって怖かった。
祖父母が云っていた。
「むかし、ここで花札賭博をやっていた」
「鉄山の人たちが密銭をつくっていた」
花札は実際、5~6組あって、見事な絵柄だったと言っていた。
(次兄がそれを小学校に持って行って、野口校長にぶんなぐられた。
それを聞いた祖父がみんなの見ている前で、花札全部を囲炉裏の火のなかへ放り込んだ。
1組だけ残っている。) 
ーーーーーー
*小冊子「たいこどんどん」のなかで、
(29ページ)
『たいこどんどん』の時代背景
 (時代考証家) 山村 達也

(最後のところで次のように書いている)
・・・・・・・
江戸では旧幕府軍の全権を担った勝海舟が、新政府軍代表の西郷隆盛と談判し、江戸城の無血開城が決定。
かろうじて江戸の町は戦果をまぬがれた。
ここに徳川の世は終わりを告げ、7月には江戸は東京と改称されたのである。
桃八と清之助がようやく東京に舞い戻ってきたのは、そんなころのことだった。
幕末の激動の9年間、江戸を離れ、ちょうど混乱が収まった頃に彼らは帰ってきた。
これは単に彼らが変革期に不在だったということではなく、庶民と云うものが時代の変革にはしょせん無関係ということの示唆なのだろう。
歴史は庶民の頭上を通り越して、いつの場合も知らぬ顔で変わっていくものなのだ。
しかし、逆にいえば、世の中がどんなに変わろうとも生き抜いていけるのが庶民だということもできるだろう。
庶民にはそういうたくましい生命力がある。
物語のラストで桃八が、
「今まで通りですよ。
鼻から息を吸って、口から食べ物を流し込んで、両手を振って足であんよをして生きて行くに決まってまさあな」と言い放つ場面は、観ているわれわれに明日への希望と勇気を与えてくれているように思えるのである。
(終)―なるほど!なるほど!-
ーーー
*井上ひさしさんは、生まれは、山形県置賜郡小松町(現・川西町)だが、お母さんと、あるいはお母さんをたずねて、色々な街を転々として、生活している。
一関、三沢、八戸、仙台、そして釜石。

◎井上ひさし
  「烈婦!ます女自叙伝」
の 最後のところを写す。
・・・・・・・・・・
こうして成りたてホヤホヤの女土建屋は、弟と私を仙台の孤児院に置いていってしまったのだった。
孤児院の生活については、また、書く機会もあろうが、三か月ほど過ぎて、わたしと弟が、あの悪夢のような一週間をようやく忘れかけ、孤児院生活になじみだしたころ、母が面会にやってきた。
その時の母は地味な和服に束ね髪。
低い、疲れた声。
「素人じゃ土建屋はなかなかうまくいかないわね。
兄さんは働きすぎで、一関の診療所にはいっちゃたし、母さんはね、釜西市へ行って屋台でもやろうと思っているのよ。
だから、当分、逢いにこれないと思うけど、かんにんしてね?」
「逢いに来なくてもいい」
弟がもぞもぞ口の中で言った。
「ぼくはこれから人間は相手にしないからいいよ。
ぼくは豚や兎や鶏と話をするよ」
わたしは、面会室の窓越しに御聖堂(おみどう)の入り口の聖母マリア像を指さした。
「母さん、ぼくの母さんはあのマリア様なんだ。
あの母さんは、女実業家にも、芸人の奥さんにも土建屋の女親分にも、屋台のおばさんにもならない。
いつも母さんなんだ。
そして、いつも神様なんだ」

・・・・・この時のことを「ます女自叙伝」で見ると、こうである。
「何を小生意気なことを!
妾(わたし)は豚でも兎でも鶏でもないし、ましてや、神様でもないんだ。
妾(わたし)は歴とした人間様です。
そして、あんた方は、この妾のお腹から生まれてきた子どもじゃないか。
よろしいとも。
妾(わたし)が鶏や神様より、駄目か駄目でないか、ひとつ、やってみようじゃありませんか!」
(「ます女自叙伝・第五部捲土重来編第一章」)
(終)
ーーーーーーーー
*桃八は、人に従って、従属して生きて行くー太鼓持ちー立場の人だった。
あらゆる苦労を引き受けるが、それは、若旦那への忠誠のためだった。
それが、9年後、江戸から東京へ変わってしまった、その時代へ来て、
「今まで通りですよ。
鼻から息を吸って、口から食べ物を流し込んで、両手を振って足であんよをして生きて行くに決まってまさあな」
と言い放つ。
これは、
確かに今まで通りの面もある。
しかし、桃八は9年前の桃八ではない。
若旦那、清之助を9年前とは反対に、励ましたり、リードする。
新しい時代の新しい桃八の宣言だと思う。
清之助さん。お金持ちの実家がなくなったのだから、これから、自力で文字通り生き抜いていかなければならない。

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November 25, 2016

弟47回・「国画展」を観る。

2016年10月19日(水)・都立美術館・第3水曜日
★弟47回・「国画展」(都立美術館)・を見た。
*墨絵の世界だ。

・ジュニア部門・
「ガウォー」 1歳・奈良光陽さん
・・・1歳で、元気なこと(拍手)

奈良というと、”記念室”のところに、展示されていた。
・奈良重利 「凛」、「華」「鬼」。
この方のお孫さんか、な、、などと、、。
ーーーーーー 
*峰岸魏山人 「馬」ーウマいとわおもわないが、印象に必ずのこる!なんだこれ、、、。
*辻谷和子  「秋の月」
*安倍芳雄  「剱岳」
*古城和明  「悠久」
*津田一典  「残雪」
*中 文子  「心象風景」-抽象画だ。

*田島華静  「ベルノ川とセーヌ川」  
等等。
ーーーーー
*ことしは、風魔さんのが無い、、、。
あとで、聞いたが、亡くなられたとか。
(合掌)
ーーーーーーーーーーーー
*「ゴッホとゴーギャン」展も見る予定だったが、
なが~い行列だ。50分待ち。
疲れた。
このつぎにしよう。

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November 18, 2016

6月→9月 (2016年)

(記録)
★6月
①6月4日(土)・息子夫婦にごちそうになった。
蒙古料理 (銀座・ひなべ)

②6月19日(日)
映画・「ロイヤルナイト」(銀座・シネスイッチ)・を見た。
第二次世界大戦、1945年5月8日、ナチスドイツ、連合軍に無条件降伏。
ロンドン、勝利を祝う市民で賑わう。
バッキンガム宮殿内で皇女姉妹が外出を国王へ願う。
1日だけ、宮殿を出ることを許される。

・知り合いの英国人、、たどたどしい日本語で言った。
「・・・わたしは イギリス、きらい、キャメロン ノー、ろうどうとう ダメ、
イ―ユーりだつ  イギリスばか、、、。
でもね、イギリスで たった ひとり すきなひとがいます。
それはね じょおうへいか です。
これはね どこへ いっても わたしたち かわらない。」
ーーー
・いつも渋い顔をしているが、英国人、大きくみえた。
・映画は、史実にもとづいているとか、、。
「ローマの休日」を思いだした。
ーーーーーーー
③6月22日(水)~7月10日(土)・参議院選挙
ーーーーーーーー
★7月
①7月2日(土)日本橋三越・いつものところへお中元を贈った。
4階、宮越珈琲店でイップク。
窓越しに、神田川上の首都高速を見る。
なるほど、道路が景観を損ねている。

②7月20日(水)第3水曜日
上野・都立美術館「ポンピドウセンター傑作展」を見る。
無料・65歳以上。
・ラジオ放送で、マゴサキウケル先生も、「第3水曜日に都立美術館へ行ってきました。無料ですから、夫婦ですと3600円、おおきいですよ」とか話しておられたが。
大先生でもこうなのだから、庶民ではもう、、、。
大同感。
ーーーーー
・展示の仕方が、フランスを、考えるようにできている。
美術館はその国の歴史であると。
世界と日本の歴史でもある。
・1900年から1977年まで、各年ごとに、作品が展示してある。
この年に、この作品、ピカソ、マチス、クリスト、、、。
一番印象に残ったのは、1945年だ!
展示物がない。
ただ、「エディット・ピアフ」の歌が静かに流れていた。
パリ解放!
何人かがハンカチで顔をふいていた。
ーーーーーー
③7月22日(金)
映画・「山の郵便配達」(中国映画)=日中友好協会荒川支部主催
・親子2代の🏣配達、、、物語、。
歩き続ける。
少しづつ変化する中国社会も垣間見せる。
人と人のつながりと自然と歴史と、静かで美しい世界がある。
ーーーー
★8月
①8月5日(土)・「人間と原爆展」(町屋文化センター)を見る。
8月6日・ヒロシマ
8月9日・ナガサキ
・・・・・。

②8月15日


③8月28日(日)
・3町会合同防災訓練(荒川区・弟九峡田小学校)
荒川消防署の指導を受ける。
午前10時~12時。参加した。300人。

④8月31日(水)・ホテルラングウッド・4F
*ARAKAWA クラッシク BoX*
・企画・ナビゲーター=河野文昭(東京芸術大学教授)
河野文昭さん(チェロ)と河野美砂子さん(ピアノ)の演奏会。
ご夫婦で、良いもんだ。
お話しがおもしろくてね。


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