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March 2017

March 26, 2017

ベトナム民主共和国=ホー・チ・ミン=本を読む。写す。

2017年3月X日
★東京新聞・2017年3月7日・火・朝刊★
《ベトナム・タイ訪問》【両陛下が帰国】
=歴史を常に意識して交流=

★ベトナム=ホー・チ・ミン。昔、この本を読んだ。
一部、写してみよう。

◎柴田進午著
 「ベトナムと思想の問題」 1968年・1972年増補版
 (青木書店)

《著者プロフィール》
*柴田進午・
・1930年 金沢市生まれ
・1953年 東京大学文学部哲学科卒業
・法政大学教授、広島大学教授歴任
・著書、編著、訳書、 多数
*亡くなられて、もう何年経つのだろう。
15年は過ぎた。
授業もうけた。新宿のご自宅に伺ったこともある。
ーーーーーー
(253ページ)=(1969年9月・「アリスハーズ平和基金主催のホー・チ・ミン主席追悼講演会」での講演)
◎思想家としてのホー・チ・ミン
・・・・・
ホー・チ・ミン主席がなくなられてからいままで多くの集会がひらかれ、また新聞、週刊誌などでもホー・チ・ミン主席を追悼する言葉が語られてきました。
私共はこれらの追悼の言葉や集会から多くのことを学んできたわけですが、今日のような集会を持った趣旨は、ホー・チ・ミン主席の優れた道徳をあらわす人格について追悼するとともに、さらにホー・チ・ミン主席が思想あるいは理論の分野で、どのような寄与をおこなったか、そこからなにを学ぶかについて深めるためであります。
もちろん、ホー・チ・ミンの思想といいましても、その生涯と密接に結びついています。
思想と人格と生涯が混然と統一されています。
従って当然のことながら、ホー・チ・ミンの生涯についてもふれなければなりません。

1、ベトナムのレーニン
「ホー・チ・ミンが死んだ!」このニュースは、青天の霹靂のように全世界につたえられ、ベトナム人民はもちろんのこと、日本人民をふくむアジアの無数の人々、いや、全世界の無数の人びとがこのすぐれた謙虚な指導者をいたんだのであります。
およそ世界の政治的指導者の死のうちで、ホー・チ・ミンの死ほど、多くの人々に追悼の気持ちをおこさせた死はなかったのではないでしょうか。

45年前にレーニンがなくなったさい、ホー・チ・ミンは、レーニンの死をいたんで次のような文章を書きました。
「『レーニンが死んだ!』、このニュースは青天の霹靂のように人々をうった。
これはアフリカの肥沃な平地、アジアの緑野のあらゆる隅々にひろがった。
・・・われわれは、この取り返しのつかぬ損失に、深く心を動かされ、われわれの兄弟、姉妹とともに、万人の共通の哀悼の意をわかつものである・・・。
生前に彼は、我々の父・教師・同志・忠告者であった。
いまやかれは社会主義革命への道をわれわれに指し示す輝ける星である。
不朽のレーニンは、われわれの事業のうちに永久に生き続けるであろう。」
(「レーニンと植民地人民」1924年)
45年前のこのホー・チ・ミンの文章のうちで、レーニンという名前にホー・チ・ミンという名前をおきかえますと、この追悼の言葉は、そのまま今日、わたしたちがホー・チ・ミン主席の死を悼んで述べる言葉になるのではないでしょうか。
自由と独立のためのたたかいでの不屈の革命性、そして人民への献身、さらに純粋さ、謙虚さ、寛大さ、清純さーレーニンの人柄を特徴づけるこれらの言葉が、そのままホー・チ・ミンの人柄をあらわす言葉でもあります。
・・・・・・・
私は1967年7月、アメリカ帝国主義の戦争犯罪を調査するために、ハノイをおとずれ、激しい爆撃の下、17度線まで南下いたしました。
ほとんどの家は廃墟になっておりましたが、わずかに残った、ある貧しい農家に入ってみて、ひどく感銘を受けたことがあります。
小さな祭壇がありましたが、その祭壇に反米闘争のかどで銃殺に処せられたグエン・バン・チョイの写真がかざってありましたが、そのグエン・バン・チョイの写真とともにホー・チ・ミン主席の写真がかざってありました。
ところが、グエン・バン・チョイの写真も、ホー・チ・ミンの写真も、ともにどこかの国におけるように大量に生産され、立派な額に入れられ、いわば規格化された写真として飾られている写真ではありませんでした。
おそらく、農家の主婦が抑えがたい敬愛の気持ちを持って、なにかの雑誌から、ちぎってきて張りつけた写真でありました。
私は、その写真をみて、そこにベトナム民衆の心の中にやどっているホー・チ・ミンの姿、そして民衆と指導者の心のつながりを見たように思いました。

もうひとうつベトナムに滞在中、わたしはホー・チ・ミンについて、大変印象深い話を聞きました。
ベトナムの日本語通訳グエン・クィ・クィさんにホー・チ・ミン主席の伝記がありませんかと聞きましたところ、こういうふうに答えました。
「ええ、くわしい伝記はありませんし、ホー主席自身が自分の人生の歩みについて話してくれないのです。
ベトナムの歴史家が、ホー主席に自伝を書いてくださいとお願いしたところ、
ホー主席は『みなさんはまずベトナム人民の歴史を書いてください。
それができあがったら、私も自伝を書きましょう』と答えられたのです。
しかし、ベトナム人民の歴史についての本は書き上げることはできませんし、ホー主席もそのことが分かっていてそのように答えられたのでしょう。」
ベトナム人民の歴史を書くようにと歴史家に課題を提起し、しかるのち自分の伝記を書こうと述べることによって、ホー主席は歴史家の注意を人民に向けさせたのであります。
そういうわけで、実はホー・チ・ミン主席の生涯について、私は、くわしい事実をあまり知ることが出来ませんでしたが、すでに発表されている、いくつかの短い伝記によれば、ホー・チ・ミン主席の生涯は、つぎのようになります。

ホー・チ・ミン主席は1890年5月19日、中部ベトナムのグアン省で、農民出身の愛国的な学者の家庭に生まれました。
幼名をグエン・シン・クンといい、少年に成長するとグエン・タト・トンという名前になりました。
当時、すでにベトナムはフランス帝国主義の完全な植民地になっていました。
このグアン省は中部ベトナムにありますが、私も、行ったところであります。
山が海岸にせまり、自然環境の困難なところでありますが、また革命的な伝統のつよいところであります。

少年ホー・チ・ミンはここでおそらくフランス植民地主義の下で苦しみ、飢え、貧困、無権利状態に虐げられている農民の姿をみて胸を痛めたのであろうと思います。
おそらくは家庭の環境、そしてこの地方の外国の侵略に対する英雄的抵抗の伝統の影響を受けて、また同胞の苦しみをともに経験して、グエン・タト・タン少年の心のうちに独立と自由を求める決意が強められたにちがいありません。

このころベトナムでは、独立運動家ファン・ボイ・チャウらの「ベトナム興復会」運動(1903年)、ハノイの「東京(トンキン)義塾」運動(1907年)、中部ベトナムの反税闘争、反仏闘争が高揚していいましたが、少年は次第に確固たる愛国者として成長していきました。
「祖国を解放しようとするなら、まず強固な組織を作らなけらばならない」というファン・ボイ・チヤウの言葉は、ながく少年の脳裏から離れなかったと云われます。
ーーーー
(注:【東京新聞・2017年3月7日・火・朝刊・26面】
《ベトナム・タイ訪問:両陛下が帰国》
・・・・・・両陛下のベトナム訪問は初めてだった。
国賓として招かれ、、、、、。
3日にハノイから中部の古都フエに移動。
フランス占領下の独立運動指導者で日本ともゆかりのあったファン・ボイ・チヤウの記念館を訪ね、孫とも会った。)
ーーーー
1911年、ホー・チ・ミンは、19歳の年にフランス貨客船の食堂ボーイになりました。
この船は、主としてアフリカ航路の船で、かれは、この船に乗っていたために、各地で植民地人民の悲惨な生活の状態を見聞することができました。
そしてその結果、ベトナムだけでなくて、植民地になっている非常に多くの国々がありということ、ベトナムが帝国主義の植民地体制の一環にほかならないことを知るようになりました。

1913年にホー・チ・ミンは、ロンドンで船を降り、雪かき人夫、ボイラーマン、ホテルの料理人などをしながら、革命運動の秘密結社「海外労働者協会」に加盟しました。
ついで1914年、ふたたび船に乗ってアメリカに行きました。
このような見聞を通じて、ホー・チ・ミンは、アメリカの独立宣言やフランス大革命の人権宣言、近代の民主主義の精神について、またヨーロッパ・アメリカの文学や思想の古典について学び、たとえばシェイクスピア、ディケンズ、ユゴー、ロマン・ロラン、アナトール・フランスらの作品について親しみました。
しかし、同時に、これらの民主主義の理想が、植民地人民や黒人に対してはまったくふみにじられ、”文明”が犯罪的な性格を帯びているということを身をもってしったのであります。
アメリカで、ホー・チ・ミン自身が見聞した黒人に対するリンチについて、かれはつぎのように書いています。

「非合法で、野蛮なリンチの慣行が、アメリカ諸州に広がり続けている。
それは黒人の開放以来ますます非人間的になり、特に黒人に対してむけられている。
怒りに猛り狂った一群を想像するがよい。
こぶしを固め目を血走らせて、口から泡をふき、どなり、ののしり、呪う・・・この一群は、危険なしに行う犯罪の荒々しい喜びにかりたてられているのだ。
かれらは、棍棒、たいまつ、ピストル、縄、ナイフ、鋏、硫酸、短剣、要するに殺傷するのに使えるありとあらゆるもので武装している。
この人海の中に黒人の肉体が投げ込まれて、こづきまわされ、なぐられ、足でふみにじられ、引き裂かれ、ののしられ、あちらこちらに投げ飛ばされ、血まみれになって、死んでいくありさまを想像してみるがよい。
この一群がリンチをやる連中である。
人間のボロきれが黒人の犠牲者である・・・。」
(「リンチ」 1924年)

こういうふうに述べて、引き続き、このアメリカにおいて、いかに残虐な拷問、リンチ、迫害が行われるかについて詳しく書いています。
世界でもっとも、”先進的”な国、民主主義のくにといわれるアメリカが、黒人の人権を蹂躙する点で最も野蛮で反民主主義の国である。
そういう本質をホー・チ・ミンは、すでに50年近くも前に身をもって学んでいたのであります。
今日ベトナム人民はアメリカ帝国主義とアメリカ人民をはっきり区別し、前者の本質について正確にみきわめてたたかっていますが、このことは、すでに50年前のホー・チ・ミンのアメリカについての認識、”二つのアメリカ”があるという認識におそらくもとづいているのではないでしょうか。
私も、ささやかながらアメリカについて勉強してきたつもりでありますけれども、”二つのアメリカ”の存在についてホー・チ・ミン以上にするどくとらえた人は少ないのではないかと思います。
とくに、アメリカの暗黒面を暴露し、糾弾する点で、先の文章以上にするどくえぐったものを、私はかつて読んだことはありません。

1918年に、グエン・タト・タンはグエン・アイ・クォク(阮愛国)という名前で、フランスにもどりました。
これも変名でありますが、この変名自体が当時の”愛国者”としてのホー・チ・ミンの立場をよくあらわしています。
当時の生活について、ホー・チ・ミン自身がこう書いています。

「第一次大戦後、私はパリで、時に写真屋の修正工として、時には”中国骨董品”(フランスで作られる!)の絵かきとして、生計をたてていた。
そして、ベトナムにおけるフランス植民地主義者の犯罪を糾弾するリーフレットを配布して歩くのだった」。
そして、かれは、翌年ベルサイユ国際会議におもむき、ベトナム人民の民族自決を訴えて、「ベトナム人民の要求書」を提出しました。
そのころ、ホーチミンはロシア革命を本能的には支持していましたが、まだマルクス主義を学んでいませんでした。
しかし、フランス社会党に入党したのち、社会党が右翼日和見主義の第二インターナショナルに残るべきか、レーニンの創立した第三インターナショナルに加入すべきかについての討論が行われた時、断固として第三インターナショナルに賛成投票をいたしました。
その基準は、どのインターナショナルが植民地諸国人民の解放闘争を支持しているかということでありました。
当時、ホー・チ・ミンは、その生涯を決定する一冊の本を読みました。
レーニンの『民族・植民地問題についてのテーゼ』でありました。
かれはつぎのように回想しています。

「このテーゼには、わかりにくい政治用語があった。
しかし、何度も何度も繰り返して読むうちに、最後には、わたしにもその主要な内容が理解することができた。
なんという感動、興奮、明白な視野、信頼が、わたくしにしみこんできたことだろう!
わたしはうれしさのあまり泣き出した。
そしてひとり部屋の中に腰を掛けていたのだが、おもわず、多数の大衆に演説するように、大きな声で『虐げられ、苦しんでいる同胞、これがわれわれの必要とするものであり、これこそわれわれの解放の道である!』と叫んだ。
このときから、私は完全にレーニンを信頼し、第三インターナショナルを信頼した。」
(「私をレーニン主義に導いた道」1960年)

ホー・チ・ミン主席がなくなったのち、世界中の共産党、労働者党の機関紙においてホー・チ・ミンが追悼されたているのはもちろんですが、商業ジャーナルリズムにおいてもホー・チ・ミンの人柄と業績について心からの追悼がおこなわれています。
そしてどのようなブルジョア・ジャーナリズムも評論家も非難めいた言葉をほとんどのべていません。
では、なぜ、ホー・チ・ミン主席がこのように多くの人々によって追悼されるのでしょうか。
それはホー・チ・ミンがとりもなおさずもっともすぐれたレーニン主義者であったからであります。
しかし、このことは、商業ジャーナリズムにおいてはほとんど指摘されていないようであります。
私たちは、今、ホー・チ・ミン主席を追悼するにあたり、主席の人格はとりもなおさず、かれが、もっともすぐれたレーニン主義者であったことによりものであることを銘記しなければなりません。

こうして、当時のグエン・アイ・クォクは、すみやかにレーニン主義者、つまり共産主義者に成長していきました。
1921年には、フランス植民地人民連盟を結成し、その翌年には機関誌『ル・パリア』を刊行して、ベトナム、コンゴ、アルジェリア、中国、インドなど、多くの植民地における帝国主義者の搾取と残虐さを告発しました。
その糾弾はすべて事実にもとづいて具体的であり、植民地主義者に対する告発は火をはくようにはげしいものでありました。
同時に、ヨーロッパ文明、より』正確には資本主義文明の言葉と実際の矛盾をあきらかにするとともに、帝国主義本国の労働者と被抑圧民族の団結をねばりつよく説得するものでありました。

グエン・アイ・クォクは1923年にはモスクワに行き、農民インターナショナルの執行委員になり、また1924年にはコミンテルン第5回大会で「民族・植民地問題についての報告」を行い、国際的な指導者として注目されるようになりました。
祖国を遠く離れて、ヨーロッパで共産主義者になったグエン・アイ・クォクはベトナムの独立を願いベトナム人として、長くモスクワにとどまることはできませんでした。
1925年、かれはさらに名前を変えて中国に行き、アジア被圧迫民族解放連盟、ベトナム青年革命同志会をつくり、また後者の中核として共産主義同盟を結成しました。
ついで、1930年に香港でベトナム共産党を結成し、ベトナム革命運動にはじめてマルクス主義の理論を適用することになりました。

その頃になるとホー・チ・ミンはホー・チ・ミンの生命はフランス植民地主義者にねらわれて、欠席裁判で死刑の判決を受け、その首に賞金がかけられるようになりました。
この間、香港で逮捕されて、ホー・チ・ミンが獄死したといううわさまでひろまり、モスクワで追悼の会さえひらかれることもありましたけれども、無事脱出して革命運動を続けました。
そして、1941年には、ついに30年ぶりに祖国ベトナムの土をふんで北部に解放区をつくり、ベトミン(越南独立同盟)を結成して、革命の基礎をきずいたのです。
それ以後のホー・チ・ミン主席の生涯については、よく知られていますので、つぎに思想の分野でのホー・チ・ミンの貢献について話したいと思います。
(以下略・ 写すの終わり)
ーーーーー
★1969年9月の講演、
1969年だから、(2017-1969=48)、48年前になるのか。
講演は、確か「労音会館」(水道橋=当時)で行われた。
僕は参加して、聞いていた。大学4年の時だった。
ーーー
ホー・チ・ミン=(1890~1969)、享年79歳。
ーーー
☆【20世紀全記録・(企画)小松、界屋、立花】講談社・1987
(1012ページ)
◎ホー・チ・ミン大統領死す。抗日、抗仏、・・・ベトナムに捧げた79年◎
9・3
ホーおじさんの愛称で国民に親しまれていた北ベトナム大統領ホー・チ・ミンがこの朝、心臓発作で死去した。
79歳だった。
ホー・チ・ミンの死が、重大な局面を迎えているパリ会談をはじめ国際情勢に影響を与えることはさけられず、東西両陣営から深い哀悼の意が寄せられた。
しかし、アメリカ政府は公式論評を避けた。
1990年5月、ベトナム中部のグエン省生まれ。
本名はグエン・タト・タン。
少年時代から独立運動に身を投じ、21歳の折り、官憲の目を逃れて渡欧。
その後アメリカに渡ってニューヨークのハーレムなどを流浪、再びパリに戻り、独立運動に専念した。
1923年からモスクワで、共産主義運動や革命戦術を学ぶ。
1927年、インドシナ共産党の組織作りに着手、30年、同党を香港で創立。
宗主国フランスから身柄不在のまま死刑宣告を受けたのも、この頃である。
1941年に帰国して、ベトナム独立同盟会(ベトミン)を結成し反フランス・反日闘争を指導。
太平洋戦争終了と同時に「ベトナム民主共和国」独立を宣言し、大統領兼首相に就任した。
ホー・チ・ミンの国葬は、9日午前7時30分からハノイのバディン広場で行われ、東西両陣営の要人多数が参列した。
ーーーーーーー
☆【昭和史全記録 1926-1989】(毎日新聞社)
(852ページ)
・1969・9・3
ホー・チ・ミン北ベトナム大統領が心臓発作のため、民族独立闘争に生涯をかけた79歳の命を終えた。
・・・・・・

・・・・・・
1941年、ベトナム独立同盟(ベトミン戦線)を創設し、45年9月にベトナム民主共和国の独立を宣言。
以降、1954年のジュネーブ休戦協定成立まで抗仏救国の長期戦を指導した。
初代大統領になるが、そのころゴザを敷いた寝室には魔法瓶とコップが2,3個、着替えを入れたリュックぐらいしかなく、酒もたばこも飲まず質素な生活を送った。
1960年代にはアメリカの北爆に抗して「人民戦争」の先頭に立った。

北ベトナム全国民は1週間の喪に服し、南ベトナム解放戦線は3日間一方的に休戦して喪に服した。
ホー大統領がハノイで息を引きとったのとほぼ同時刻に、
アメリカのワシントンの議事堂では、15歳の少年グレッグ・ロジャース君がベトナム戦争に反対してピストル自殺をした。
(終)


 


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March 24, 2017

【証人喚問】 新聞を読んで、写す。

2017年3月X日
◎新聞を読む。写す。
★しんぶん赤旗・2017年3月21日・火★
(2面)=《見出し》
《都議会百条委員会》
《そね都議と石原元知事の一問一答》
《知事判断なし、ありえない》
・・・・
・・・・
☆そね都議(共産党)
昨年10月に小池(百合子)知事が石原氏に出した質問書の中で、東京ガスと都との土壌汚染対策費用の負担区分について「用地購入後に土壌汚染対策費用として858億円が必要となった。
東京ガスは78億円負担することに合意し、残りは都が負担した。
これは適切な措置と考えるか」と質問した。
(その質問に)石原証人は「今思えばアンフェアだと思うが、私の判断を求められることがなかった」と答えた。
当時本当に東京ガスの78億円負担について判断を求められなかったのか。

・石原元都知事
向こうは売りたくない、こちらはどうしても買いたいという条件での交渉だから、私は担当者に一任する以外なかったし、詳細については記憶がない。

☆そね都議
100億円近い金額を東京ガスに負担させると同時に、今後それ以上の負担を求めないという重要な決定。
知事の判断を仰がないことはありえない。
実際に18日の喚問で、岡田至元市場長は「自分が着任して早い段階で、東京ガスに約80億円の負担を求めることを、市場の考えとして知事に説明し了承を得た」と証言している。

・石原元都知事
そういった問題を含めて、ことは審議会が審議の上で是としたので、私はそれを受けて是とする以外なかった。

(巨額契約なのに)
☆曽根都議
2011年3月31日に、豊洲工場跡地の最終的な売買契約と土壌汚染処理の協定書が締結された。
売買契約についても事前に報告を受けていたのではないか。

・石原氏
覚えていない。
ことは全て担当者に一任していた。

☆そね都議
この日だけで二つの契約書で559億円の巨額契約。
新銀行東京への400億円の追加出資を決めた際(08年)には「これを棄損したら知事を辞めるとまで言っている。
豊洲用地の最終的な契約で「記憶にない」ということは考えられない。
岡田氏は契約9日前の月22日、「知事に内容を説明した」と証言しているし、100条委員会に提出された資料もある。
これでも記憶にないのか。
(*ここのところ、ラジオ・文化放送である保守系コメンテイターが”鋭い質問だった”と紹介していましたね。
もちろん、質問者の名前とか政党名は言いませんでしたが。)

・石原氏
記憶にないものはない。
(*責任はあるが記憶にない、記憶にないが責任はある、その両方ですね。
弁償してください!)

*そね都議
あなたは最近
「豊洲は安全だ。早く豊洲移転すべきだ」と主張している。
ところが、昨日(19日)発表の地下水モニタリング再調査で環境基準の100倍のベンゼンが検出され、検出されてはならないシアンが18カ所で検出された。
あなたが都民に約束したのは「地下も地下水も環境基準以下にする」というものだったではないか。
約束と「豊洲移転を急げ」と言うのは矛盾ではないか。
ーー
”検出されてはならないシアン”
(注:①シアン=分子式(CN)₂ 水銀・銀・金などのシアン化物を赤熱すると生ずる無職の気体。
特異な臭気を帯び、毒性を持つ。
点火すると紫色の炎をあげて燃焼する。
有機合成原料に用いる。青素。ジシアン。
②シアン化カリウム=化学式KCN。黄血塩を赤熱すると生ずる無職の結晶。
金・銀の冶金、金属メッキなどに使用。
猛毒。青化カリ。青酸カリ。)
=広辞苑=
ーー
(真相究明へ喚問)
・石原氏
地下水について厳しい基準を設定したことは間違いないが、ハードルが高すぎたかもしれない。

☆そね都議
都民への約束が「ハードルが高すぎたかもしれない」というのは、都民の側から見ればとんでもない話。
(まったく その通り!)
「食の安全を守る」のなら、最初から豊洲へ行かなければよかった。
別の選択肢があったはずだ。
昨日(19日)たくさんの業者や消費者が(土壌汚染問題に関する)専門家会議に駆けつけ、大変怒っていた。
「都は環境基準以下にすると説明したが、信用できない」と怒りをぶつけたり、「汚染対策に860億円も使って、これからいくら使うつもりなのか」と発言したりして、会場から共感の拍手が湧いた。
石原証人はこの声にこそ耳を傾けるべきだ。
このままでは真実が明らかにできないので、石原証人には真相究明まで証人喚問に応じるように強く求め、100条委員会としても再度、石原氏の喚問を行うことを強く求める。
(拍手)
ーーー
■食料を扱う市場、その移転先に、わざわざ、有害物資で汚染されている東京ガス跡地を選んだ、これはどうしてなんだ?と。

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March 20, 2017

Ariose Saxophone Quartet 2nd リサイタル・(国立音大生) を聞く。

2017年2月18日(土)
(案内)
★Ariose Saxophone Quartete 2nd リサイタル★
・吉田祐介
・中島由香里
・山本真望子
・山田彩華
国立音楽大学サクソフォーン専攻生で結成。
〈Ariose〉とはスペイン語で美しい旋律という意味。
その名の元に日々、深く暖かいハーモニーを追及している。
室内楽を下地啓二氏、 滝上典彦氏に師事。
2014年サンハート・アンサンブル・オーディションにて最優秀賞、聴衆賞、アルソ出版社賞を受賞。
第15回大阪国際音楽コンクールアンサンブル部門第3位入賞。
第20回JILA音楽コンクール室内楽部門第3位入賞。
第10回横浜国際音楽コンクールアンサンブル部門審査員奨励賞受賞。
東京、神奈川を中心に演奏活動を行っている。
・F、et、M、ジャンジャン:  サクソフォーン四重奏
・E、ボザ:           アンダンテとスケルツォ
・P、チャイコフスキー:   管絃四重奏曲 第1番ニ長調 
                 作品11よりアンダンテ・カンタービレ
・C、ドビュッシー:      弦楽四重奏曲 ト短調作品10
ーーーーー
*2017年2月18日(土)15:30開演(15:00開場)
*東京・日暮里サニーホールコンサートサロン
◎主催:(社)東京国際芸術協会  後援:東京音楽学院
ーーーーーーーーーーーー
*国立(くにたち)音楽大学在校生の演奏会の案内をもらう。
さっそく いって みよう。
満席、といっても 聴衆40人位かな。
大学生、高校生、出演者の家族、友人などがきいている。
ーーーー
【演奏者のプロフィール】
★山本真望子 Mamiko Yamamoto, Soprano. Sax
愛媛県出身。愛媛県立伊予高等学校卒業。
現在、国立音楽大学サクソフォーン専攻4年ソリストコースに在籍。
Vincent、David氏のマスタークラスを受講。
第30回全日本ジュニアクラシック全国大会審査員賞。
サクソフォーンを水岡嘉夫氏、雲井雅人氏に師事。
室内楽を下地啓二氏、滝上典彦氏に師事。

★山田彩華 Sayaka Yamada、Alto.Sax
岩手県出身。岩手県立久慈高等学校卒業。
現在、国立音楽大学サクソフォーン専攻2年。
サクソフォーンを雲井雅人氏、渡辺邦夫氏に師事。
室内楽を下地啓二氏、滝上典彦氏に師事。

★中島由香里 Yukari Nakajima, Tenor.Sax
鳥取県出身。中学でサックスを始め、
現在、国立音楽大学サクソフォーン専攻4年。
クラシックサックスを坂東邦宣氏、雲井雅人氏に、室内楽を下地啓二氏、滝上典彦氏に師事。
Newtide Jazz Orchestra の4thテナーサックスを担当し、各地のJazz Festivalに出演している。
これまで神保彰氏、故宮本大路氏、吉田次郎氏、村上ポンタ秀一氏など日本のトップジャズプレイヤーと共演した。

★吉田祐介 Yusuke Yoshida, Bariton.Sax
富山県立呉羽高校音楽コース卒業。
第98回ソロ・室内定期演奏会にてソリストとして出演。
サクソフォーンを雲井雅人氏、宗貞啓二、坂東邦宣の各氏に、室内楽を下地啓二、滝上典彦の各氏に師事。
現在、国立音楽大学3年ソリストコースに在籍。
ーーーーーー
*演奏*
◎F,et,M,ジャンジャン:
♪サクソフォーン4重奏曲♪
わかくて けいかい はずんいる。
(拍手)

◎E, ポザ:
♪アンダンテとスケルツォ♪
ウ~ム!聞くべし!
(拍手)

◎P.チャイコフスキー:
♪弦楽4重奏曲第1番 ニ短調♪
♯作品11よりアンダンテ・カンタービレ♯
ウ~ム。
チャイコフスキーというと「白鳥の湖」の人か。ロシアの。
美と哀しみ、、。
静かに穏やかに消えていく、、悲愴、、。
(拍手)

◎C.ドビュッシー:
♪弦楽4重奏曲 ト短調作品10♪
・・・・・
ドビュッシーが残した唯一の弦楽4重奏曲である。
循環形式の要素に加えドビュッシーらしい旋法や和声が用いられた近代的な作品である。
・・・(パンフより)
・一楽章: (活気をもって、決然と)
・二楽章: (十分に生き生きと、とてもリズミカルに)
・三楽章: (穏やかに、甘く表情豊かに)
・四楽章: (きわめて穏やかに、きわめて躍動して、きわめて生き生きと)
(拍手)
*ドビュッシー(1862-1918) フランスの人。
(拍手)
ーーーー
*約1時間、休みなし、説明なし、の演奏会で、奏者の緊張感が伝わってきた。
吹奏の1時間ー続けてのーは疲れるだろうなー。
しかし、わかくてはつらつとしていて、よいものだ。
ーーーーー
「岩手県立久慈高校教職員一同 藤原○○」の花輪も。
礼!

 

 


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March 13, 2017

「日中友好協会荒川支部・2017年・新春の集い」・開催される。

2017年2月10日(金)・アクト21・午後6時30分
【日中友好協会荒川支部ニュース 40号】より
★楽しかった日中友好の「新春のつどい」★
《ご協力ありがとうございました》
荒川支部の「新春の集い」は2月10日、ことし一番の寒さでしたが60人を超える参加で開かれました。
支部長(高月昭)あいさつ、来賓紹介とあいさつに続いて中国残留孤児の方のお話しを聞きました。
乾杯のあと、留学生の自己紹介と会員でもある都議予定候補の相馬けんいちさんのあいさつ、二人の中国人アーテイストのショーを楽しみ、支部役員のギター演奏での参加者全員の「うたごえ」がフィナーレとなりました。

《中国大使館と荒川区長・代理=教育長からもあいさつ》
来賓として中国大使館からお二人が出席、陳会林書記官が中国国交45周年を迎え改めて草の根からの交流の大切さを強調されました。
荒川区の区長代理で高梨博和教育長は、荒川支部と留学生に区内小中学校の中国人児童支援への感謝を述べられました。
また、協会都蓮の岡村芳雄副理事長は、廬溝橋事件80年にあたり、「日中不再戦」の活動強化と中国百科検定受験を呼びかけました。

《中国残留孤児・中島幼八さんが 感動的な体験を話されました》
今から70年前、旧満州開拓団として中国侵略に参加した家族が敗戦後、父親をシベリアに送られ、悲惨な逃避行の中で、餓死寸前の3歳の中島さんを行商の中国人に託したそうです。
死にそうな敵国人の子どもを引き受けて預かる人が見つかり命が守られ、16歳まで育てられたのち、日本の実母のもとに戻った経過を養母の写真や小学校時代の洋服を見せながら話しました。
中島さんの体験記「この生あるは」からは、中国の農民の生活、心情がつたわります。
軽快で明るく面白い本です。
ぜひ一読を。

《ことしも素晴らしかったチェン・シさんの歌》
雲南省出身で日本で活躍するメゾソプラノ歌手の陳㬢(チェン・シ)さんは、荒川支部の行事にたびたび参加して素晴らしい歌声を聞かせてくれている人です。
今回も日本の「早春賦」や中国の恋の歌を歌い、アンコールに応え、「草原情歌」など2曲を歌いました。

《リュウ・ケンさんのすごい変面と京劇のお話し》
母親が中国残留孤児の日本人で父親が中国人の劉研さんは、京劇の俳優です。
この日は素早く17種類ものお面を変え、そのたびに会場から「オー」と感動の声があがりました。
また、京劇の特徴についてもトークし京劇の歌声も披露してくれました。
(ニュース終わり)
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【日中友好新聞・2017年3月5日号】より
(2面)
◎中国レーダー◎
《2016年統計が語る中国の今》=井出啓二長崎大学名誉教授
★春節から全人代へ★
615万人が海外へ出かけた春節が終わり、3月の全国人民代表者会議・政治協商会議を迎えます。
17年の方針が明らかにされています。
中国経済の今を語る、16年の注目の数字をいくつか挙げてみます。

★投資・対外工事大国へ★
*世界の貿易・対外直接投資は減少したが、中国への直接投資は1390億ドル、前年比2・3%増(UNCTAD統計、中国統計では1260億ドル)、アメリカ、イギリスに次ぐ世界3位。
中国からの対外非金融直接投資は1701・1億ドル、44,1%増。
中でも外国企業のM&A1072億ドルと急増し、世界1位。

*一帯一路政策の展開で拡大著しい対外請負工事高は1594・2億ドル。
*貿易総額は3兆6856億ドル、6,8%減(輸出7,7%減、 輸入5,5%減)、貿易黒字は5107・3億ドル。
*人民元の対ドルレートは14年から元安に転じ、16年は6,6%減。
これが外貨流出を招き、外貨準備高は3兆億台ギリギリへ(12月末、3兆154億ドル。17年1月末、2兆9982億ドル)。

★世界経済成長のエンジン★
*GDP成長率は6・7%。
世界経済成長への貢献率33,3%で、10年連続で世界1位。
*重慶、チベット、貴州は2桁成長だが、大半の省の成長率は7~8%台。
下位グループは、遼寧マイナス2,5%、黒竜江6,1%、奇知林6、8%、山西4,5%
しかし、17年の成長目標はー遼寧6,5%前後、黒竜江6~6,5%、危地林%前後、山西5,5%前後を掲げている。
*財政出動による景気の下ささえにより、12年以後は財政赤字が拡大。
16年は、当初予算を6489億元上回る、2,83兆元の赤字。
赤字率15%、対GDP比3,8%の赤字。
*土地使用権譲渡収入は、
14年 4,26兆元の史上最高を記録し、
15年は3,37兆元に抑制されたものの
16年は3,75兆元に再増した。
ちなみに16,7万の国有企業の納付税総額は3,8兆元、利潤総額は2,3兆元。
*固定資産投資は8,1%増であったが、総投資の60%強を占める民間投資は3,2%増にとどまった。
国有部門は18,7%増。

★自動車保有率27%★
*中国の自動車販売は世界最大の2802,8万台。
自動車の保有は100戸中の27戸となった。
高速鉄道は2万キロ、高速道路は13万キロへの拡延。
*17年6月の大学卒業生は795万人と過去最高
(15年大学進学率40%)

★横ばいの日中経済関係★
*日中間の貿易投資はそれぞれ12年、13年から減少に転じた。
16年も、2747,9億ドル、1,3%減。
対中直接投資は前年の32,1億ドルから31,1億ドルへ3%減。
日中関係の後退は軽微とも言えますが、対中投資ランキングでは、
シンガポール、韓国、台湾、アメリカより下位です。
(終)
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*集いで、講演をされた中島幼八さんの著書を写す。

★中島幼八著
  「一中国残留孤児がつづるーこの生あるは」
  (幼学舎) 平成27年=2015年 全418p
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《著者紹介》
昭和17年、東京三田に生まれる。翌年、家族と中国東北部に渡る。
戦後、中国養父母に育てられる。
昭和33年7月、単身で舞鶴に帰還。
横浜山手中華学校に学ぶ。
夜間高校卒業後、1966年日本中国友好協会本部事務局に勤務。
通訳に従事するほか、日中国交回復運動に身を投じる。
その後、通訳・翻訳を専業とする。
平成20年、妻との死別後、69歳で引退。
日本語版:『この生あるは』、中国版『何有此生』(北京三聯店刊行)を同時期執筆。
趣味:陶芸(駒沢陶芸会所属)
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*まえがき*ー北斗七星の下で育つー

兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて 忘れ難し故郷
高野辰之 作詞
 
誰も故郷があるといわれる。
あの戦争で異国に残された私ら孤児にとっては、皮肉にも、日本は祖国であっても故郷ではなかった。
私達を育んでくれた故郷は、かの広大な中国である。

戦後という時間は70年を迎えている。
気付いてみれば、自分は古希の齢を過ぎ、よくもここまで生きてこられたと痛感する。
この世に生を享けたのは、ちょうど太平洋戦争の真っ最中だった。
その後、時代の嵐に翻弄されて、物心がまだつかない頃に、死の淵に追い込まれながらも、生き残ることが出来た。
いま振り返ると奇跡に思えてならない。
病み細った幼い命が蘇ることができたのは、ほかでもなく中国人の養母に拾われたお蔭であった。
養母はごく普通の女性で、自分たちも衣食に困る毎日なのに、瀕死の私と云う敵国日本の子どもを毅然と受け入れて、「我垃址」(ウォラーチョ=私が育てます)と言い切った。
この瀬戸際における養母の言葉には、生死の分かれ目におかれた私を救う崇高な愛が込められていた。
あれから、中国語でいうと「一把屎一把尿」(イーパーシーイーパーニョー=ウンコだの、おしっこだの)を汚いとも思わず、心血を注ぎ、13年間にわたり、私を育ててくれた。
その間、養父が3人も変わりながら、千の手を借りて、まるでリレーのように、私を日本の実母の元に送り届けてくれた。

私自身に限って言えば、実の親を含めて、父親が5人、母親が二人、そして二つの国にわたる無数の善良な人々の愛に支えられて、この生は、いま此処にある。
(!!!!)
したがって、私は生きている限り、この恩を忘れることがない。
とりわけ、生みの親より育ての親の恩が大きいと言われるように養親へ報いたい。

そこで、身の程もわきまえず、ペンをとりました。
このささやかな小冊子を、中国や日本で温かい手をさしのべてくれたすべての人々、ことに養父母に献たい。
ーーーーーーー
(111p)
*9章 1950年という年・・・初めて知る祖国の事情

1950年という年は世界的に多事の年であったが、僕にとっても様々なことを体験し、一年の内に数年分も知的に成長するきっかけができた。
(・エーっと、1950年と云うと、著者は 昭17年=1942年 生まれだから著者8歳、中国革命(1949年)の翌年かな。)
・・・・・・
途中、略
・・・・・・
6月25日、朝鮮戦争が起こったというニュースがこの静かな村に飛び込んできた。
6月のことであったが、次第に緊張の度合いが強まった。
そういう情勢のなかで、灯火管制の指示が出た。
朝鮮戦争が激化するにつれて、アメリカの戦闘機が空爆する可能性もあるということで、夜間の灯火はすべて禁止された。
・・・・・・

・・・・・・
こうした愛国衛生運動に取り組む傍ら、新しい呼びかけも出た。
平和署名運動である。
1950年にストックホルムで核廃絶の平和会議があったらしい。
資料によると、この会議はノーベル化学賞受賞者のジョリオ・キュリーはじめ、ドイツの作家トーマス・マンらが呼びかけ、全世界向けに反核4か条が発表された。
同時に、核兵器反対の署名運動を世界各地で展開するように呼びかけられた。
中国は朝鮮戦争でアメリカによる核兵器の使用を心配していた関係もあって、全土で署名運動を展開した。
僕らの学校も村も平和署名を行った。

僕のクラスに新しい編入生が入ってきたが、その名が劉玉波(リューユイポー)という子で、僕と同じ机に座った。
彼の父親はまた当校の先生として就任し、地理と図画を教えていた。
後に聞いたところでは、その劉学(リューシエー)先生は日本が開設した美術学校を出ているそうで、日本語も堪能だったらしい。
しかし、戦後中国でいう抗日戦争が勝利した後において、こうした日本との関わりについてはおおっぴらにすることはなかった。
したがって先生の前歴も当時はほとんど知られていなかった。
ある日、授業のときに平和署名の意義を話してくれた。
その際に、広島・長崎でアメリカが原子爆弾を落としたこと、何十万人の罪もない市民が死んだとか、何年も草木すら生えないとか説明した。
核兵器の恐ろしさを初めて生々しく教えられた。

そのとき、劉先生は日本の位置を示す地図を黒板に書いて、広島・長崎という地名を教えてくれた。
正直なところ、自分は日本人だとよく言われるが、なぜ他の人と違うのか全く理解できなかった。
この日初めて、日本の位置を知り、遠く離れた洋上に浮かぶ島国だと知った。
その時の授業では劉先生は、ずっと日本の話をしてくれた。
戦後に『どっこい生きている』という映画があったそうだ。
映画で描かれたのは戦後、一般の日本人が苦しい中を健気に生き抜く家族の話である。
その中に出てくる大人たちが非常に勤勉で、善良な市民の姿であった。
いままで、教科書に出てくる軍人の姿とまったく違っていた。
このような善良な人々や子供たちがたくさん原子爆弾の下で死んだと劉先生は訴えるような口調で話を結んだ。
この授業で僕は初めて祖国日本のことを知った。
いままでこれほど身近に感じたことはなかった。
それから、真剣に署名運動に参加した。
その頃、『張おばさんの平和署名』という歌もはやった。
僕ら小学生も街に出て、村人に平和署名の意義を訴えたり、署名を集めたりした。
家に帰り、養父母にも署名を勧めた。
養母が村で主催された識字教室に参加していたが、まだ自分の名前をうまく書けなかった。
養母の名前 孫振琴 というのは画数が多く、僕の書いた字をまねて署名簿に自分の名前を書いた。
『寧安県誌』の記録によると、全県で署名数は10万4千にも達し、全県人口の7割にのぼったようだ。
ちなみに中国全土で2億人あまり、地球上で5億人が署名したようだ。

この署名運動とともに、朝鮮戦争に反対する抗米援朝(カンメーイエンチョー)運動(米国と戦い朝鮮を支援)も進められた。
その運動では小学生も慰問袋を作ったり、秋の収穫の時に畑へ出かけ、落穂ひろいをやった。
僕や劉や曹らも大きい同級生に引率されて、あちこちの畑へ行き粟や大豆を拾い集めた。
それを寄付して、大砲や飛行機を買い、朝鮮を支援するのであった。
それで寧安県では戦闘機を一機 翰章(ハンジャン)号 と名付けて寄付したそうだ。
・・・・・

・・・・・
そんな時にとても偉い英雄が話題になった。
張積慧(チャンチーホイ)という中国人のパイロットがボロの戦闘機でアメリカのエース戦闘機を撃墜したというのだ。
おそらくいまでも彼の名を知らない中国人はいないだろう。
正月に部屋に飾るポスターふうの年画にもなり、僕らが愛読するマンガ本にも登場してくる。
みんなの心を鼓舞激励するヒーローの出現によって大人にも子どもにもアメリカに勝てる自信や勇気を与えてくれた。
・・・・・・
略 (119pへ)
・・・・・・
翌日学校で聴いたら、朝鮮からの避難民が到着したしたそうだ。
ほとんど老人や子供だった。
子どもの数が多かったようで、南門近くの朝鮮人学校と僕たちの学校に分かれて授業を受けることになった。
当校に入る生徒たちは北側の棟に入ることになった。
県内では7千人の難民を受け入れて、そのうち孤児が800人だったそうだ。
(!!!)
・・・・
学期の変わり目に朝鮮人の生徒たちは僕らの学校でドラマを公演し、僕らに見せた。
なかなか本格的な舞台で、内容は自分たちの故郷を戦争から守るという筋書きだった。
冬の景色を表す塀の上の雪など僕たちよりも舞台装置が凝っているような印象だった。
僕らも出し物を用意して応えた。
僕も舞台にあがってみんなと踊りをやった。
・・・・
この朝鮮人の避難民は、朝鮮戦争が終了した1953年にいっせいに引き上げた。
中国の大地は新中国の成立によってようやく平和が訪れて、経済の発展をめざして建設しようと、本腰を入れるこれからという矢先に、朝鮮戦争が勃発した。
3年を経てやっと不安が消え、大人は農業に力を入れ、子供は勉強に専念することがようやく可能になった。
・・・・

(137p)
*11章 愉快な学校生活・・・先生や級友に恵まれる

 

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