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March 26, 2017

ベトナム民主共和国=ホー・チ・ミン=本を読む。写す。

2017年3月X日
★東京新聞・2017年3月7日・火・朝刊★
《ベトナム・タイ訪問》【両陛下が帰国】
=歴史を常に意識して交流=

★ベトナム=ホー・チ・ミン。昔、この本を読んだ。
一部、写してみよう。

◎柴田進午著
 「ベトナムと思想の問題」 1968年・1972年増補版
 (青木書店)

《著者プロフィール》
*柴田進午・
・1930年 金沢市生まれ
・1953年 東京大学文学部哲学科卒業
・法政大学教授、広島大学教授歴任
・著書、編著、訳書、 多数
*亡くなられて、もう何年経つのだろう。
15年は過ぎた。
授業もうけた。新宿のご自宅に伺ったこともある。
ーーーーーー
(253ページ)=(1969年9月・「アリスハーズ平和基金主催のホー・チ・ミン主席追悼講演会」での講演)
◎思想家としてのホー・チ・ミン
・・・・・
ホー・チ・ミン主席がなくなられてからいままで多くの集会がひらかれ、また新聞、週刊誌などでもホー・チ・ミン主席を追悼する言葉が語られてきました。
私共はこれらの追悼の言葉や集会から多くのことを学んできたわけですが、今日のような集会を持った趣旨は、ホー・チ・ミン主席の優れた道徳をあらわす人格について追悼するとともに、さらにホー・チ・ミン主席が思想あるいは理論の分野で、どのような寄与をおこなったか、そこからなにを学ぶかについて深めるためであります。
もちろん、ホー・チ・ミンの思想といいましても、その生涯と密接に結びついています。
思想と人格と生涯が混然と統一されています。
従って当然のことながら、ホー・チ・ミンの生涯についてもふれなければなりません。

1、ベトナムのレーニン
「ホー・チ・ミンが死んだ!」このニュースは、青天の霹靂のように全世界につたえられ、ベトナム人民はもちろんのこと、日本人民をふくむアジアの無数の人々、いや、全世界の無数の人びとがこのすぐれた謙虚な指導者をいたんだのであります。
およそ世界の政治的指導者の死のうちで、ホー・チ・ミンの死ほど、多くの人々に追悼の気持ちをおこさせた死はなかったのではないでしょうか。

45年前にレーニンがなくなったさい、ホー・チ・ミンは、レーニンの死をいたんで次のような文章を書きました。
「『レーニンが死んだ!』、このニュースは青天の霹靂のように人々をうった。
これはアフリカの肥沃な平地、アジアの緑野のあらゆる隅々にひろがった。
・・・われわれは、この取り返しのつかぬ損失に、深く心を動かされ、われわれの兄弟、姉妹とともに、万人の共通の哀悼の意をわかつものである・・・。
生前に彼は、我々の父・教師・同志・忠告者であった。
いまやかれは社会主義革命への道をわれわれに指し示す輝ける星である。
不朽のレーニンは、われわれの事業のうちに永久に生き続けるであろう。」
(「レーニンと植民地人民」1924年)
45年前のこのホー・チ・ミンの文章のうちで、レーニンという名前にホー・チ・ミンという名前をおきかえますと、この追悼の言葉は、そのまま今日、わたしたちがホー・チ・ミン主席の死を悼んで述べる言葉になるのではないでしょうか。
自由と独立のためのたたかいでの不屈の革命性、そして人民への献身、さらに純粋さ、謙虚さ、寛大さ、清純さーレーニンの人柄を特徴づけるこれらの言葉が、そのままホー・チ・ミンの人柄をあらわす言葉でもあります。
・・・・・・・
私は1967年7月、アメリカ帝国主義の戦争犯罪を調査するために、ハノイをおとずれ、激しい爆撃の下、17度線まで南下いたしました。
ほとんどの家は廃墟になっておりましたが、わずかに残った、ある貧しい農家に入ってみて、ひどく感銘を受けたことがあります。
小さな祭壇がありましたが、その祭壇に反米闘争のかどで銃殺に処せられたグエン・バン・チョイの写真がかざってありましたが、そのグエン・バン・チョイの写真とともにホー・チ・ミン主席の写真がかざってありました。
ところが、グエン・バン・チョイの写真も、ホー・チ・ミンの写真も、ともにどこかの国におけるように大量に生産され、立派な額に入れられ、いわば規格化された写真として飾られている写真ではありませんでした。
おそらく、農家の主婦が抑えがたい敬愛の気持ちを持って、なにかの雑誌から、ちぎってきて張りつけた写真でありました。
私は、その写真をみて、そこにベトナム民衆の心の中にやどっているホー・チ・ミンの姿、そして民衆と指導者の心のつながりを見たように思いました。

もうひとうつベトナムに滞在中、わたしはホー・チ・ミンについて、大変印象深い話を聞きました。
ベトナムの日本語通訳グエン・クィ・クィさんにホー・チ・ミン主席の伝記がありませんかと聞きましたところ、こういうふうに答えました。
「ええ、くわしい伝記はありませんし、ホー主席自身が自分の人生の歩みについて話してくれないのです。
ベトナムの歴史家が、ホー主席に自伝を書いてくださいとお願いしたところ、
ホー主席は『みなさんはまずベトナム人民の歴史を書いてください。
それができあがったら、私も自伝を書きましょう』と答えられたのです。
しかし、ベトナム人民の歴史についての本は書き上げることはできませんし、ホー主席もそのことが分かっていてそのように答えられたのでしょう。」
ベトナム人民の歴史を書くようにと歴史家に課題を提起し、しかるのち自分の伝記を書こうと述べることによって、ホー主席は歴史家の注意を人民に向けさせたのであります。
そういうわけで、実はホー・チ・ミン主席の生涯について、私は、くわしい事実をあまり知ることが出来ませんでしたが、すでに発表されている、いくつかの短い伝記によれば、ホー・チ・ミン主席の生涯は、つぎのようになります。

ホー・チ・ミン主席は1890年5月19日、中部ベトナムのグアン省で、農民出身の愛国的な学者の家庭に生まれました。
幼名をグエン・シン・クンといい、少年に成長するとグエン・タト・トンという名前になりました。
当時、すでにベトナムはフランス帝国主義の完全な植民地になっていました。
このグアン省は中部ベトナムにありますが、私も、行ったところであります。
山が海岸にせまり、自然環境の困難なところでありますが、また革命的な伝統のつよいところであります。

少年ホー・チ・ミンはここでおそらくフランス植民地主義の下で苦しみ、飢え、貧困、無権利状態に虐げられている農民の姿をみて胸を痛めたのであろうと思います。
おそらくは家庭の環境、そしてこの地方の外国の侵略に対する英雄的抵抗の伝統の影響を受けて、また同胞の苦しみをともに経験して、グエン・タト・タン少年の心のうちに独立と自由を求める決意が強められたにちがいありません。

このころベトナムでは、独立運動家ファン・ボイ・チャウらの「ベトナム興復会」運動(1903年)、ハノイの「東京(トンキン)義塾」運動(1907年)、中部ベトナムの反税闘争、反仏闘争が高揚していいましたが、少年は次第に確固たる愛国者として成長していきました。
「祖国を解放しようとするなら、まず強固な組織を作らなけらばならない」というファン・ボイ・チヤウの言葉は、ながく少年の脳裏から離れなかったと云われます。
ーーーー
(注:【東京新聞・2017年3月7日・火・朝刊・26面】
《ベトナム・タイ訪問:両陛下が帰国》
・・・・・・両陛下のベトナム訪問は初めてだった。
国賓として招かれ、、、、、。
3日にハノイから中部の古都フエに移動。
フランス占領下の独立運動指導者で日本ともゆかりのあったファン・ボイ・チヤウの記念館を訪ね、孫とも会った。)
ーーーー
1911年、ホー・チ・ミンは、19歳の年にフランス貨客船の食堂ボーイになりました。
この船は、主としてアフリカ航路の船で、かれは、この船に乗っていたために、各地で植民地人民の悲惨な生活の状態を見聞することができました。
そしてその結果、ベトナムだけでなくて、植民地になっている非常に多くの国々がありということ、ベトナムが帝国主義の植民地体制の一環にほかならないことを知るようになりました。

1913年にホー・チ・ミンは、ロンドンで船を降り、雪かき人夫、ボイラーマン、ホテルの料理人などをしながら、革命運動の秘密結社「海外労働者協会」に加盟しました。
ついで1914年、ふたたび船に乗ってアメリカに行きました。
このような見聞を通じて、ホー・チ・ミンは、アメリカの独立宣言やフランス大革命の人権宣言、近代の民主主義の精神について、またヨーロッパ・アメリカの文学や思想の古典について学び、たとえばシェイクスピア、ディケンズ、ユゴー、ロマン・ロラン、アナトール・フランスらの作品について親しみました。
しかし、同時に、これらの民主主義の理想が、植民地人民や黒人に対してはまったくふみにじられ、”文明”が犯罪的な性格を帯びているということを身をもってしったのであります。
アメリカで、ホー・チ・ミン自身が見聞した黒人に対するリンチについて、かれはつぎのように書いています。

「非合法で、野蛮なリンチの慣行が、アメリカ諸州に広がり続けている。
それは黒人の開放以来ますます非人間的になり、特に黒人に対してむけられている。
怒りに猛り狂った一群を想像するがよい。
こぶしを固め目を血走らせて、口から泡をふき、どなり、ののしり、呪う・・・この一群は、危険なしに行う犯罪の荒々しい喜びにかりたてられているのだ。
かれらは、棍棒、たいまつ、ピストル、縄、ナイフ、鋏、硫酸、短剣、要するに殺傷するのに使えるありとあらゆるもので武装している。
この人海の中に黒人の肉体が投げ込まれて、こづきまわされ、なぐられ、足でふみにじられ、引き裂かれ、ののしられ、あちらこちらに投げ飛ばされ、血まみれになって、死んでいくありさまを想像してみるがよい。
この一群がリンチをやる連中である。
人間のボロきれが黒人の犠牲者である・・・。」
(「リンチ」 1924年)

こういうふうに述べて、引き続き、このアメリカにおいて、いかに残虐な拷問、リンチ、迫害が行われるかについて詳しく書いています。
世界でもっとも、”先進的”な国、民主主義のくにといわれるアメリカが、黒人の人権を蹂躙する点で最も野蛮で反民主主義の国である。
そういう本質をホー・チ・ミンは、すでに50年近くも前に身をもって学んでいたのであります。
今日ベトナム人民はアメリカ帝国主義とアメリカ人民をはっきり区別し、前者の本質について正確にみきわめてたたかっていますが、このことは、すでに50年前のホー・チ・ミンのアメリカについての認識、”二つのアメリカ”があるという認識におそらくもとづいているのではないでしょうか。
私も、ささやかながらアメリカについて勉強してきたつもりでありますけれども、”二つのアメリカ”の存在についてホー・チ・ミン以上にするどくとらえた人は少ないのではないかと思います。
とくに、アメリカの暗黒面を暴露し、糾弾する点で、先の文章以上にするどくえぐったものを、私はかつて読んだことはありません。

1918年に、グエン・タト・タンはグエン・アイ・クォク(阮愛国)という名前で、フランスにもどりました。
これも変名でありますが、この変名自体が当時の”愛国者”としてのホー・チ・ミンの立場をよくあらわしています。
当時の生活について、ホー・チ・ミン自身がこう書いています。

「第一次大戦後、私はパリで、時に写真屋の修正工として、時には”中国骨董品”(フランスで作られる!)の絵かきとして、生計をたてていた。
そして、ベトナムにおけるフランス植民地主義者の犯罪を糾弾するリーフレットを配布して歩くのだった」。
そして、かれは、翌年ベルサイユ国際会議におもむき、ベトナム人民の民族自決を訴えて、「ベトナム人民の要求書」を提出しました。
そのころ、ホーチミンはロシア革命を本能的には支持していましたが、まだマルクス主義を学んでいませんでした。
しかし、フランス社会党に入党したのち、社会党が右翼日和見主義の第二インターナショナルに残るべきか、レーニンの創立した第三インターナショナルに加入すべきかについての討論が行われた時、断固として第三インターナショナルに賛成投票をいたしました。
その基準は、どのインターナショナルが植民地諸国人民の解放闘争を支持しているかということでありました。
当時、ホー・チ・ミンは、その生涯を決定する一冊の本を読みました。
レーニンの『民族・植民地問題についてのテーゼ』でありました。
かれはつぎのように回想しています。

「このテーゼには、わかりにくい政治用語があった。
しかし、何度も何度も繰り返して読むうちに、最後には、わたしにもその主要な内容が理解することができた。
なんという感動、興奮、明白な視野、信頼が、わたくしにしみこんできたことだろう!
わたしはうれしさのあまり泣き出した。
そしてひとり部屋の中に腰を掛けていたのだが、おもわず、多数の大衆に演説するように、大きな声で『虐げられ、苦しんでいる同胞、これがわれわれの必要とするものであり、これこそわれわれの解放の道である!』と叫んだ。
このときから、私は完全にレーニンを信頼し、第三インターナショナルを信頼した。」
(「私をレーニン主義に導いた道」1960年)

ホー・チ・ミン主席がなくなったのち、世界中の共産党、労働者党の機関紙においてホー・チ・ミンが追悼されたているのはもちろんですが、商業ジャーナルリズムにおいてもホー・チ・ミンの人柄と業績について心からの追悼がおこなわれています。
そしてどのようなブルジョア・ジャーナリズムも評論家も非難めいた言葉をほとんどのべていません。
では、なぜ、ホー・チ・ミン主席がこのように多くの人々によって追悼されるのでしょうか。
それはホー・チ・ミンがとりもなおさずもっともすぐれたレーニン主義者であったからであります。
しかし、このことは、商業ジャーナリズムにおいてはほとんど指摘されていないようであります。
私たちは、今、ホー・チ・ミン主席を追悼するにあたり、主席の人格はとりもなおさず、かれが、もっともすぐれたレーニン主義者であったことによりものであることを銘記しなければなりません。

こうして、当時のグエン・アイ・クォクは、すみやかにレーニン主義者、つまり共産主義者に成長していきました。
1921年には、フランス植民地人民連盟を結成し、その翌年には機関誌『ル・パリア』を刊行して、ベトナム、コンゴ、アルジェリア、中国、インドなど、多くの植民地における帝国主義者の搾取と残虐さを告発しました。
その糾弾はすべて事実にもとづいて具体的であり、植民地主義者に対する告発は火をはくようにはげしいものでありました。
同時に、ヨーロッパ文明、より』正確には資本主義文明の言葉と実際の矛盾をあきらかにするとともに、帝国主義本国の労働者と被抑圧民族の団結をねばりつよく説得するものでありました。

グエン・アイ・クォクは1923年にはモスクワに行き、農民インターナショナルの執行委員になり、また1924年にはコミンテルン第5回大会で「民族・植民地問題についての報告」を行い、国際的な指導者として注目されるようになりました。
祖国を遠く離れて、ヨーロッパで共産主義者になったグエン・アイ・クォクはベトナムの独立を願いベトナム人として、長くモスクワにとどまることはできませんでした。
1925年、かれはさらに名前を変えて中国に行き、アジア被圧迫民族解放連盟、ベトナム青年革命同志会をつくり、また後者の中核として共産主義同盟を結成しました。
ついで、1930年に香港でベトナム共産党を結成し、ベトナム革命運動にはじめてマルクス主義の理論を適用することになりました。

その頃になるとホー・チ・ミンはホー・チ・ミンの生命はフランス植民地主義者にねらわれて、欠席裁判で死刑の判決を受け、その首に賞金がかけられるようになりました。
この間、香港で逮捕されて、ホー・チ・ミンが獄死したといううわさまでひろまり、モスクワで追悼の会さえひらかれることもありましたけれども、無事脱出して革命運動を続けました。
そして、1941年には、ついに30年ぶりに祖国ベトナムの土をふんで北部に解放区をつくり、ベトミン(越南独立同盟)を結成して、革命の基礎をきずいたのです。
それ以後のホー・チ・ミン主席の生涯については、よく知られていますので、つぎに思想の分野でのホー・チ・ミンの貢献について話したいと思います。
(以下略・ 写すの終わり)
ーーーーー
★1969年9月の講演、
1969年だから、(2017-1969=48)、48年前になるのか。
講演は、確か「労音会館」(水道橋=当時)で行われた。
僕は参加して、聞いていた。大学4年の時だった。
ーーー
ホー・チ・ミン=(1890~1969)、享年79歳。
ーーー
☆【20世紀全記録・(企画)小松、界屋、立花】講談社・1987
(1012ページ)
◎ホー・チ・ミン大統領死す。抗日、抗仏、・・・ベトナムに捧げた79年◎
9・3
ホーおじさんの愛称で国民に親しまれていた北ベトナム大統領ホー・チ・ミンがこの朝、心臓発作で死去した。
79歳だった。
ホー・チ・ミンの死が、重大な局面を迎えているパリ会談をはじめ国際情勢に影響を与えることはさけられず、東西両陣営から深い哀悼の意が寄せられた。
しかし、アメリカ政府は公式論評を避けた。
1990年5月、ベトナム中部のグエン省生まれ。
本名はグエン・タト・タン。
少年時代から独立運動に身を投じ、21歳の折り、官憲の目を逃れて渡欧。
その後アメリカに渡ってニューヨークのハーレムなどを流浪、再びパリに戻り、独立運動に専念した。
1923年からモスクワで、共産主義運動や革命戦術を学ぶ。
1927年、インドシナ共産党の組織作りに着手、30年、同党を香港で創立。
宗主国フランスから身柄不在のまま死刑宣告を受けたのも、この頃である。
1941年に帰国して、ベトナム独立同盟会(ベトミン)を結成し反フランス・反日闘争を指導。
太平洋戦争終了と同時に「ベトナム民主共和国」独立を宣言し、大統領兼首相に就任した。
ホー・チ・ミンの国葬は、9日午前7時30分からハノイのバディン広場で行われ、東西両陣営の要人多数が参列した。
ーーーーーーー
☆【昭和史全記録 1926-1989】(毎日新聞社)
(852ページ)
・1969・9・3
ホー・チ・ミン北ベトナム大統領が心臓発作のため、民族独立闘争に生涯をかけた79歳の命を終えた。
・・・・・・

・・・・・・
1941年、ベトナム独立同盟(ベトミン戦線)を創設し、45年9月にベトナム民主共和国の独立を宣言。
以降、1954年のジュネーブ休戦協定成立まで抗仏救国の長期戦を指導した。
初代大統領になるが、そのころゴザを敷いた寝室には魔法瓶とコップが2,3個、着替えを入れたリュックぐらいしかなく、酒もたばこも飲まず質素な生活を送った。
1960年代にはアメリカの北爆に抗して「人民戦争」の先頭に立った。

北ベトナム全国民は1週間の喪に服し、南ベトナム解放戦線は3日間一方的に休戦して喪に服した。
ホー大統領がハノイで息を引きとったのとほぼ同時刻に、
アメリカのワシントンの議事堂では、15歳の少年グレッグ・ロジャース君がベトナム戦争に反対してピストル自殺をした。
(終)


 


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