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May 11, 2017

「森友学園問題」「教育勅語」「道徳の検定」-新聞と本を読む。

2017年4月X日
★国会予算員会における安倍首相の答弁は、聞いていられない。
どんな風かは、テレビ中継やラジオ中継を見たり聞いたりした人は知っている。
ニュースコメンテイターは、「乱暴な答弁」「予算委員会の劣化」と言っていた。
最近は、特にそうだ。
心の奥底に嘘をかかえているからではないか。

(新聞を読む)
●しんぶん赤旗・2017年4月19日(水)●
(4面)
*日本共産党の志位和夫委員長が17日、東京都千代田区の東京国際フォーラムで開かれた東京演説会で行った演説は次の通りです。
(見出し)
【対決構図は「自公対共産党」】
【首都東京の底力を発揮し、必ず勝利を】
☆東京演説会 ◎志位委員長 の訴え

・その中から、途中、を一部写す。
・・・・・・
【「森友」疑惑、目を覆うばかりの大臣たちのモラル崩壊】

安倍政権には、もう一つの特徴があります。
第二の特徴は、こうしてあらゆる分野で暴走を続けながら、同時に、モラル崩壊のボロボロの姿になっていることです。
ボロボロです。
「森友」疑惑はその特徴です。
疑惑の核心―8億円もの国有地の値引きがどうして行われたかをめぐって、安倍首相夫人の昭恵氏の関与の疑惑がきわめて濃厚になっています。
真っ黒に近いグレーであります。
(!その通り!)
国有地取引に関して、籠池氏が昭恵氏付きの政府職員に手紙を送っていた。
政府職員は籠池氏の要望を財務省に取り次ぎ、その結果の回答ファクスを籠池氏に送っていた。
そして籠池氏の手紙に照らしてみると、土地の超格安払い下げをはじめ、要望は「満額回答」になっていた。
昭恵氏の関与があったからこそ「満額回答」になったのではないか。
誰が考えてもそうとしか考えられません。
(!まったく、その通り!)
追いつめられた安倍首相は、明らかに公的な存在である夫人を「私人」と強弁し、「首相夫人付きの職員が個人的にやったこと」と弁明しています。
「私人ならどうして5人もの公務員がついているのでしょうか。
職員が指示もなく勝手に動くということがありうるでしょうか。
絶対にありえない。
夫人付き職員に全責任を負わせて自分は保身に走る。
あまりに冷酷、身勝手な態度ではないでしょうか。
(!ほんとうに、その通り!)
この疑惑を解明する道はあります。
それは昭恵氏に国会にきてもらい、真実を語ってもらうことであります。
(拍手)
官邸のツイッターを見ていたら、新宿御苑の「桜を見る会」で夫婦そろって花見に興じている写真がアップされていました。
花見をするなというつもりはありません。
しかし、まず国会に出て真実を語ることが先決じゃないですか。
(拍手:そうそう、ここのところ、ラジオ放送でも政治評論家の方が、「花見をしていたが、、、云々」とふれていましたね。
外国へも二人で行くようで、テレビなどに映るが、国民は苦々しい気持ちで見ていることを忘れないでもらいたいですね。
やるべきことも、やらないで。)

私は、昭恵氏をはじめとする関係者を国会に招致し、徹底的な真相解明を行うことを強く求めるものであります。
(拍手)

モラルという点では、大臣たちのモラル崩壊も目を覆うばかりです。
稲田防衛大臣は、南スーダンに派兵された自衛隊の「日報」をめぐる虚偽答弁にくわえ、「森友」問題でも「法律的な相談を受けたことはない」という虚偽答弁を行い、虚偽が明らかになっても「私の記憶に基づいていった、虚偽答弁という認識はない」と居直っています。
こんな強弁が通用するなら、どんな虚偽答弁をやって、それが虚偽とわかっても「記憶に基づいて言いました」の一言ですむことになります。
事実にもとづく国会質疑はおよそ不可能になるではありませんか。
(拍手)

今村復興大臣は、、、、。
・・・・・略・・・・
(!今村復興大臣は、責任を取って大臣をやめたのに、
虚偽答弁を繰り返す稲田朋美防衛大臣は何故辞任しないのだろう。
おかしなことだ。)

【「教育勅語」は”天皇の命令書”-徹頭徹尾、国民主権とは相いれない】

「森友」疑惑、稲田問題、今村問題―モラル崩壊をさらしながら、安倍政権が国民に押し付けようとしているのが「教育勅語」です。

「教育勅語」を学校教材として活用することを否定しないとする答弁書を閣議決定したことは、モラル崩壊の極致といわなければなりません。
「憲法に反しない形」(で活用する)といいますが、「教育勅語」というのはそのすべてが天皇が臣下の国民に命令するというもので、徹頭徹尾、日本国憲法の国民主権と相いれないものです。
だいたい、「教育勅語」は「勅」といってところで、アウトなのです。
「勅」というのは「天皇の命令」と言う意味です。
「教育勅語」というのは”天皇の命令書”なのです。
こんなものが国民主権と両立するわけがありません。
そして「教育勅語」にあきてあることのすべては”国の非常時には天皇のために命を投げ出せ”という殺し文句につながってくる。
だからこそ、戦後、衆参両院で排除、執行決議が採択され、歴史によって葬りさられたものなのです。
「教育勅語」が多くの若者たちを戦場にかりたてたという歴史への反省もなく、なし崩しの復権をはかろうという企てを絶対に許すわけには参りません。
(拍手)
(写すの終わり)
ーーーーーーー
次に
★朝日新聞・2017年3月25日(土)・朝刊★
(16面)=社説・Editorials

《森友学園問題》
《説得力ない首相の説明》
疑問はいっこうに晴れない。
安倍首相は昨日の参院予算委員会で、「森友学園」への国有地払い下げや学校認可に、自身や妻昭恵氏が「まったく関与していない」と強調した。

審議で焦点となったのは、首相夫人付きの政府職員から籠池泰典氏に届いたFaxだ。
・・・・・・

・・・・・・
その後、首相夫人付き職員は次のファックスを籠池氏に送った。
「財務省本省に問い合わせ、国有財産管理室から回答を得ました」
「なお、本件は昭恵夫人にもすでに報告させていただいております」
「工事費の建て替え払いの予算化について(略)平成28年度での予算措置を行う方向で調整中」と、政府予算に言及した部分もある。

首相は、ファックスは籠池氏側から首相夫人付きへの問い合わせに対する回答で、昭恵氏は報告を受けただけだと主張する。
しかし、国家公務員である首相夫人付きの職員が、昭恵氏の了解もなく一学校法人の要望を官庁に取り次ぐものだろうか。
(そう、そう、そう)
首相は、首相夫人付きの行為について「事務的な問い合わせで、依頼や働きかけ、不当な圧力はまったくない」
(!ウッソー!)
という。

だが首相夫人付きからの問い合わせは、官庁に政治的な影響力を持ちうる。
・・・・・・

・・・・・・
稲田防衛相も発言の信用性がいっそう疑われる事態だ。
(そのとおり!)
・・・・・・

・・・・・・
籠池氏の喚問での証言に対し、昭恵氏は自身のフェイスブックで
「籠池さんから何度か短いメッセージをいただいた記憶がありますが、土地の契約に関して、まったくおききしておりません」
などと反論した。
だが、自分の主張を一方的に述べるフェイスブックでの説明だけで、首相夫人という公的存在としての説明責任を果たしたとは到底、言えない。

籠池氏は、虚偽を述べれば偽証罪に問われる証人喚問で証言した。
昭恵氏も自ら国会で説明すべきである。
(その通り!)

(終)
ーーーーーーーー
★同じ「社説」、同じ日の。
【「道徳」の検定―教科科で窮屈になった】を読む。
・・・・・
・・・・・
道徳が来年春から教科になるのに伴い、文科省が小学校の教科書の検定結果を公表した。
・・・・・
しかし、肝心の中身は学習指導要領にがんじがらめだ。
検定の具体例を見てみよう。
指導要領は道徳科の内容として、
「正直、誠実」「節度、節制」「礼儀」「感謝」など22の徳目を定めている。
他の教科と違い、これらに客観的・科学的根拠があるわけではない。
(!そう、そう!)
だが、指導要領に書かれている以上、教科書はすべてをもうらしなければならない。
・・・・・

・・・・・
朝日新聞の社説は「道徳の教科化」に疑念を投げかけてきたが、その思いは深まるばかりだ。
道徳の狙いは、
「いかに生きるか」という課題に子供たちを向き合わせることにある。
文科省が決めた徳目の枠内に、そもそも治まるはずがない。

教員には教科書を使う義務があるが、文科省も独自の教材使用まで禁じてはいない。

一線の先生に求めたいのは、あくまでも目の前の児童・生徒から出発する姿勢である。
一人ひとりの子やクラスをとりまく状況を踏まえ、身の回りの出来事も素材にして、胸に届く指導を試みてほしい。
(拍手)

教育委員会や学校長には、現場の意向を最大限尊重し、工夫の余地を確保してもらいたい。
考え、議論する力を本気で育てたいのなら、成長段階に応じて、教科書の内容そのものを疑い、批判的に読む授業も認めるべきだろう。
(拍手) -終ー
ーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーー
★「道徳」についての社説を読んで、昔、読んだ本を2冊思い出した。
*天野貞祐
*柳田謙十郎
二人の。
内容は、今だって、よく理解しているとは言えないが、一部書き写してみよう。
総理や大臣まで「モラル崩壊」といわれている時代なのだからのだから、一緒に勉強しなおしてみるのもよいではないか。
(モラル=道徳。倫理。習俗。=広辞苑)
●天野 貞祐○(1884~1980)
・神奈川県津久井町生まれ
・独協中学、一高、京都帝国大学卒
・京都大学教授
吉田首相時代、文部大臣、
・1964年~1969年 獨協大学初代学長
ーーー
*1966年、僕が読売新聞奨学生で新聞店にいたころ、1年先輩にOさんがいた。
独協大学英文科に通っていた。
6畳一部屋に2年間一緒に暮らした。
(ちょうど、50年前か)
今も交流しているが。
「天野学長」のことを時々はなした。
当時は、学内でつるし上げられていた 
とか。
ーーーーーーー
◎天野貞祐
  「徳育について」 1937年 (昭和12年)

1、 
・・・・・・
・・・・・・
徳育の重要性は何人も承認するにやぶさかでないにしても、如何にして徳育をさかんならしめるかが問題である。
寡聞な私はその具体的な方法については殆ど聞いたことがない。
徳育を盛んならしめることは結構に相違ないがその実行は決して容易でない。
・・・・・
社会のどこにもそう有徳者がいるわけではなく、また社会において道徳的なものは容易に力を有ちえない。
生きた現実社会にどれほど反道徳的反理性的なものが跳梁跋扈しているかを考えるならば徳育の非常にむずかしいことは明白である。
また社会にあらゆる虚偽、偽善、不道理が横行していては道徳道徳と叫んでも道徳は権威をもちうる筈がなく、徳育の十分に行われるわけがない。
・・・・・
・・・・・
2、
徳育が非常に困難なことは真面目に考える者には明白な事柄であるが、しからばその困難な理由はどこに存するであろうか。
第一にそれは徳そのものの構造に因由する。
道徳的価値即ち人格的価値は事物或いは事物関係の如き対象の価値ではなくして行為、心情の如き作用の価値である。
随って、志向追及されることが絶対に不可能でないにしても極めて困難である。
いま価値の系列を
(一)感覚的(有用、快等)
(二)生命的(活動的、健康等)
(三)精神的(知識的、美的、法的)
(四)人格的(道徳的)
という順序で考えてみると高次の価値ほど志向追及されにくい。
道徳的価値の実現される場合に於いても直接に追及される目的は一般に道徳的価値ではなくして低次の価値である。
・・・・・
・・・・・
例えば、我々が友人の経済事情を改めるために犠牲を払い、或いは友人の心配を取り除いて活動的ならしめることに由って、・・・・・愛とか友情とかいう道徳的価値が実現される。
真実と言う知的価値を他人に知らしめんとする事によって誠実と云う徳が実現される。
・・・・
・・・・
*徳育を困難ならしめる第二の理由は
道徳的法則がその実現に関して自然法則と全然事情を異にする点に存する。
自然法則は元来絶対に自然を支配する。
人間といえども自然法則の支配を免れえない。
ただ人間は自然に従いつつ自然を利用する途を知っているだけである。
・・・・・
・・・・・
道徳法則に関しては事情が全く異なっている。
愛、正義、誠実、信頼等の如き徳は決して自然法則の如くに現実を支配していない。
この意味においては道徳法則は自然法則の如くに強力ではない。
現実支配ということを根拠として行為、心術の道徳性を判定することはできぬ。
・・・・・・
・・・・・・
現実生活においては正直なる為に成功する場合があるかもしれぬ。
しかし、それが不成功の原因になることも可能である。
否、良心的であるよりは良心的でない方が人生に処しやすいであろう。
その時々の勢力に便乗していくのが最上の処世法かもしれない。
古来如何に多くの性格者が良心の為に苦難の生を送ったことであろう。
真理性に対する愛著のために如何に真正の学徒が苦しんだことであろうか。
・・・・・
・・・・・
良心は決して生存競争の武器ではない。
無良心無性格が処世を安易にするに反して性格と良心とは人を不幸にしやすい。
それにもかかわらず安易を去って艱難につき、死して生きんとするところに道徳の尊厳がある。
如何に金力権力武力暴力の如き諸勢力が社会を支配しても 勢力への便乗屈服を潔しとせざるところに道徳性がある。
・・・・・
・・・・・
自然範疇は自然を支配して例外を許さない。
然し、人生にあっては過誤や自己欺瞞は云うに及ばず、忠君愛国の旗の下に案外に党同伐異(とうどうばつい)の私心がはびこり、国体明徴の高唱の陰に私利私欲が根を張ることさえも可能なのである。
・・・・・
・・・・・
3、
・・・・・
・模範というのはつねに理想化された模型たるに止まる。
現実の生きた人間はそういう特別な場合に出会うことは容易になく、例え出会ったとしても模型通りに行動しては生きていけるかが疑わしい。
現実は不断に流動変化している。
各人の境遇はそれぞれの独異性を有する。
時代を隔てた偉人の模範や徳目の解明やを学ぶのはいわば水に入らずして水泳の型を習うに等しい。
・・・・・・
・・・・・・
第二に生徒が修身教科書を通じて様々な有徳的言行を限りなく学ぶことは、生徒の道徳感覚を鈍らす危険がありそうに考えられる。
・・・・・・
・・・・・・
終身授業に伴いやすい第三の弊害は修身身担当者をして修身は自己独占の如く思わしめ、他の教科の担当者をして修身は全然自己と無関係のことの如く思わせる点において成立する。
他の学科の担当者といえども固より教師である。
・・・・・・・
・・・・・・・
4、
・・・・・・
・・・・・・
教師が生徒の知識を向上せしめんとして我を忘れて他へ没入努力することは知育であると同時に徳育である。
自己を忘れて他人の生命、生活等の為に努力することが道徳的行為であると同じく生徒の知識を高めんとする努力も道徳的である。
前者が道徳的感化の源泉であり真の徳育であり能ふ如く後者も亦それでありうる。
知育に熱中している教師は決して直接に徳育を目指しているのではない、
そのことが却って道徳的感化を醸すのである。
・・・・・・・
・・・・・・・
事実中等学校などにおいて感化を及ぼす教師は修身の担当者よりはむしろ他学科の担当者である場合が多いのは決して偶然ではないのである。
知的価値を質料として教師は愛、誠実、勤勉、努力等等の諸徳を実現し、それを通じて生徒はこれらの徳を習得する。
ここに人格的感化があり真の徳育が行われるのである。
それ故に知育は決して単なる知育に止まるものではなくして徳育性を伴うことが承認されなければならぬと思う。
・・・・・・・
・・・・・・・
5、
すなわち教師が教師たることに矜持を感じ爽快闊達な精神をもってその職務に邁進することが生徒の人格完成、知徳の育成にとって不可欠条件である。
この条件なくして徳育を語るも無意味に近い。
然らば、我が国の教育は如何なる状態に在るかというに、其處には一つの根本的欠陥が存して右の条件を充たすことが出来ない。
欠陥とは、教育が真の独立性を有しないことである。
我が国の教育は第一に軍事教練(或いはむしろ軍事教官)に由って甚だしい束縛を受けている。
・・・・・・・
・・・・・・・
生きた社会の武器は銃剣ではなくして常識である。
常識を養うことが中等教育の本質であって、それは教養が高等学校教育の本質なるが如くだ。
・・・・・・・
・・・・・・・
わが国の教育は第二に行政機構から教育の自律性を奪われている。
上は文部省から下は町村役場に至るまで教育には何の体験もなく知識もない人々が教育と教育者とを支配するが如き不遜な考えを懐いている場合が多い。
これ等の人達はもともと便宜上教育に関係したのであって教育に身命を捧げたわけではない。
・・・・・・・
・・・・・・・
この両側面からの圧迫に由って我が国の教育は歪められ正常な機能を営むことが出来ない。
この規範を廃棄して教育の自律性を獲得することが日本教育の将来に課せられた重大適切な問題である。

教育は教育に関する体験と知識とを有つ人々の手に納められなければならぬ。
教育を天職と感じ、それにおいて生きそれに身命を捧げ来たった人々によって教育に関する一切の計画、一切の施設が為されなければならぬ。
教育を現状の如き隷属の位置に打ち捨ておくことに就いては固より教育者にその責任がある。
道理は決してひとりでには実現しない。
手を挟して真正の教育の興隆を待つは百年河清を俟つの類である。
道理は人間が全力を傾注して実現すべきものだ。
それ以外に道理が実現し正義の行われるに至る道はない。
教育者自身が社会に跋扈する不道理を痛感せず教育の隷属を憤らぬ限り、教育の独立は獲得される筈がない。

然らば如何にして教育をその圧迫から解放し能うか。
教育者が一切の私情を殺し学閥を廃棄し共同の敵に対して団結するにある。
団結のない處に社会的な力はない。
団結さえすれば力が湧いてくる。
鉄道、司法、逓信、軍事などの関係者はすべて団結によって強大な社会力を有する。
将校も教師も本来共に職能者である。
且つ教育は軍事に比して国家的重要性において優とも劣ることはない。
しかるに一方は社会の推進力をもって任じ他方は社会の被圧迫階級に止まる所以は専ら団結組織の有無に存すると思う。
一村、一群、一府県、全国と云う系統をなして教育者の純正堅固な団結を組織結成することは決して不可能では無い。
それさえできれば教育者は社会の一大勢力となり、知性が社会的威力を有つに至るであろう。

今や全国多数の教育者は生活の安定を有せず、特に小学校教員から無数の結核疾患者を出し、この職務の犠牲者は勲章と年金を貰う代わりに、強制的休退場を命ぜられ一家米穀の実に窮するの悲境にに陥る。
この時に当たりお祭り的世界教育者会議などに莫大な費用が投ぜられ、しかもその一部を小学校、幼稚園の教師にまで負担せしムルに至ってはただ驚くほかはない。
そもそも教育者はどこまで社会的圧迫を甘受しようというのでらろうか。

私は社会正義に無感覚な教育関係者や諸勢力への阿附追随を能事とする俗教育家などに訴えんとする意思を毫末も有しない。
実はこの種の人びとが革新教育の興隆を内部から阻害するのだ。
斯かる人々ではなくして心の底から人間性を愛し社会正義の念に灼熱する純正公明な教育者諸君の奮起を促したいのである。
教育者自身が強くならずして、いったい誰が教育と教育者を社会的桎梏から解放し、教育本来の使命を達成せしむるであろうか。
(終)
ーーーーーー
◎安倍能成・天野貞祐・辰野隆 集
  (角川書店) 昭和28年(1953年) 出版
の中の、(147p~154p)、
*天野貞祐・【道理の感覚】〈徳育について〉より、写した。

(著者年譜)より
・昭和12年(1937) 53歳
「道理の感覚」出版。
・・・・・・
濱田耕作博士京大総長に就任。
総長の懇請により学生課長を兼任する。
「道理の感覚」を支配する反軍思想の故をもって文部省は反対であったのを総長が説得して行った人事であった。

・昭和13年(1938) 54歳
「道理の感覚」が物議をかもすことになった。
・・・・・
果たして右翼分子を利用して著者らを葬らんとする策謀家が配属将校に迫って事をおこさしめた。
しかし濱田総長の断然たる態度と配属将校川村大佐の理解ある処理は著者の自発的絶版ということをもって事件を落着せしめてしまった。
此の時、岩波書店には4000部の未制本分があったが憲兵はこれを店員の面前で裁断した。
岩波書店としては平和克服後に出版したいから保存させてほしいと希望したが、聞かれなかったのである。
当時岩波茂雄氏はこう語った
―軍人なんて実に愚かなものだ、印刷した紙を裁断したところで紙型は保蔵されている。
戦争がすんだら、この紙型で早速本をつくるつもりだと。
この予言通り紙型は疎開して保蔵され終戦と同時に新版が発行されたのである。
ーーーーーーー
*次に
★共同執筆
・大河内一男・高島善弥・木村健康・塩野谷九十九・服部英太郎・鵜飼信成・辻清明・柳田謙十郎
【資本主義社会の終焉】 (労働文化社) 1949年出版
のなかの、(117p~148p)
*柳田謙十郎
 「道徳の変革」

(見出し)
1、家族道徳
・三つの特色
①融即制
②封鎖性
③祖先崇拝

2、封建道徳

3、ブルジョア道徳

4、プロレタリア道徳

5、人類道徳
(終)
ーーーーーーー
(写すのは次回へ)
ーーーーーーーー
◎柳田謙十郎 (1893~1983)=明治26年~昭和58年)
・神奈川県。京都大学。
・地方の教員生活ののち苦学して京大哲学科を卒業。
1927(昭和2年) 弘前高校教授
1929年 台北大学助教授
この頃、西田哲学に没頭し、高坂正顕らとともに京都学派の有力な一員となった。
1945年 文学博士
1949年以後 一切の教職を去り、マルクス主義に接近。
平和運動・労働者教育運動に積極的に参加し、戦後の唯物論哲学の普及に尽力した。
労働者教育協会名誉会長。
日中友好協会会長。
著:柳田謙十郎著作集全8巻、1967~74.
(三省堂コンサイス日本人名事典・1993)


 

 


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