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December 13, 2017

東京新聞 ・「沖縄知られざる現実」(2017年11月5日・日)を読む。

2015年11月X日 新聞を読む。

●東京新聞・11月5日(日)・朝刊●
(8・9面)を読んで写す。

=東京・結(ゆい)・琉球フォーラム=
◎【沖縄 知られざる現実】◎
・東京・結(ゆい)・琉球フォーラム「知らない・知りたい沖縄」(東京新聞、琉球新報社主催)が10月22日、法政大学市ヶ谷キャンパス(東京都千代田区)で開かれた。
衆院選の投開票日にあたり、台風21号も接近する中、第一部では翁長雄志知事が基調講演で、米軍基地をめぐる問題や今後の課題を紹介。
続くパネルディスカッションではジャーナリストの津田大介さんをコーディネーターに、法政大学の田中優子総長と昭和女子大の川平朝清名誉教授が参加した。
第2部の沖縄音楽ライブはミュージシャンの古謝美佐子さん、佐原一哉さん、上間綾乃さんがコラボレーションで代表的な民謡「安里屋ユンタ」などを披露し、約600人の聴講者を魅了した。
(拍手!)
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★基調報告★
◎翁長雄志(おながたけし) 沖縄県知事
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《プロフィール》
1950年、沖縄県生まれ。
1975年 3月、法政大学法学部卒業。
1985年 8月、那覇市議選初当選(2期)
1992年 6月、沖縄県議選初当選(2期)
2000年12月、那覇市長(4期)
2014年12月、沖縄県知事に就任。
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【日本の法及ばぬ最前線】
《「基地で食べている・余分に振興策」は、誤解》
・直近の出来事から紹介し、日米地位協定の中で日本政府の置かれた位置を話したい。
つい10日ほど前(10月11日)に、東村(ひがしそん)高江という地域でCH53E大型ヘリコプターが不時着・炎上した。
岸田(文雄)自民党政調会長(前外相)が沖縄に選挙運動で来ていて、米軍のニコルソン4軍調整官に抗議しようとしたが、一顧だにされなかった。
(う~む)
警察は現場に入れなかった。
昨年12月にオスプレイが名護市沖に墜落した時も海上保安庁や警察、消防は入れず物事が進んだ。
(怒!)
私達は事件事故があるたびに沖縄防衛局や外務省の沖縄担当大使と折衝するが、彼らは「米軍に伝えます」と言うだけで、全く改善も原因究明もされずに物事が進む。
これが地位協定の最前線の沖縄の状況だ。

安倍総理が今回「大義なき解散」と言われる中で、「国難突破解散」と言ったが、私は沖縄がこういう状況を強いられていることそのものが国難である、と県内で話している。

72年前に沖縄で住民を巻き込んだ唯一の地上戦があった。
20万人を超す方が亡くなった。
ほとんどが収容所に入れられ、その間に米軍が民有地を整地して飛行場を造り、米軍基地にした。
県民が自分たちで提供した基地は一つもない。
米軍基地は銃剣とブルトーザーで強制的に収容されたものだ。
(怒!)
国土面積の0,6%(沖縄県)に70,4%の米軍専用施設があり、日米地位協定という日本の法律の及ばない状況の最前線に沖縄はある。
私達は基本的人権や自己決定権、民主主義などを10万人規模の集会をして訴える。
根底にあるものを理解してほしい。

インターネットなどで言われる誤った認識は「沖縄は基地で食べているから、振興策をもらい基地を置いておけばいい」というものだ。
年末に政府が発表する3千億援規模の沖縄振興策について、予算をもらい、余分に振興策ももらっているのなら基地を預かるのは当たり前だ、という誤解だ。
他の都道府県とは違い沖縄県だけは日本復帰後、沖縄開発庁(現内閣府)が要望を聞き、一括計上で沖縄振興策の予算として要求しているだけで、余分にもらっていると思われている。

今や米軍専用施設は沖縄経済の最大の阻害要因だ。
戦後すぐの」県民所得に占める基地収入は50%だけだったが今は5%。
一方、米軍住宅の跡地にできた那覇新都心地区の直接経済収入は1600億円で返還前の約30倍、雇用者は17000人で約100倍になった。
残る米軍施設が返還されたときの沖縄経済の発展は大変なものがある。

安倍さんが「日本を取り戻す」という話をするが、その日本に沖縄は入っているのか。
「戦後レジームからの脱却」も、北朝鮮がミサイルを撃つたびに米国にすり寄っており、脱却というより「戦後レジームの完成」としか思えない。

米軍北部訓練場の約4000ヘクタールが昨年12月に返還されたが、それでも減ったのは約74%のうち3ポイント。
普天間飛行場の返還で減るのは0,7%だ。
代わりに、新辺野古基地として約160ヘクタールが埋め立てられ基地が造られる。
(怒!)
普天間飛行場は絶対に県内移設させない。
(賛成。絶対支持!)
私は嘉手納基地に反対するとか、それ以外の70,4%のうち9割の米軍基地について、特に今出て行けという話はしていない。
ただ普天間飛行場だけは、沖縄の名誉、日本の自立という意味からしても、これくらいだけは(新基地は造らせない)という思いだ。
これからも沖縄にご理解をいただければありがたいし、一緒に日本の民主主義、地方自治を考えていきたい。
(拍手!)ー翁長さんの演説・終ー
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▼沖縄での米軍機の事故・トラブル▼
・2004年8月 
沖縄国際大(宜野湾市)にCH53大型輸送ヘリが墜落。
剰員人が負傷。

・2006年1月
本島東の海上にF15戦闘機が墜落。

・2013年5月
本島北部・国頭村沖の海上にF15が墜落。

・2013年8月
キャンプ・ハンセン(宜野座村)でHH60救難へリが墜落、乗員一人が死亡。

・2015年8月
うるま市沖でH60ヘリが米輸送艦船の甲板に墜落。
7人負傷。

・2016年12月
名護市沖で輸送船オスプレイ大破。
2人負傷。

・2017年6月
久米島沖にCH53ヘリが緊急着陸。

・2017年9月
新石垣空港にオスプレイ2機が緊急着陸。

・2017年10月
本島北部・東村の民有地でCH53が大破、炎上。
ーーーーー
(10・22フォーラム以降の事故!)
・2017年12月7日
宜野湾市野嵩(のだけ)の緑が丘保育園の園舎屋上にプラスチック製の円筒が落下。
「US」のラベル。

・2017年12月13日
宜野湾市、市立普天間第二小学校校庭に米軍ヘリの窓枠が落下。
児童一人が軽いケガ。
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(割り込み)
◎《調査も出来ない日本の属国性》◎
*前泊 博盛 沖縄国際大学教授

・オスプレイの墜落をはじめ10月に東村高江で起きた大型輸送ヘリCH53Eの事故などを通して、日本政府のアメリカへの属国性がこれまで以上にはっきりしてきました。
これまで、沖縄県が米軍機の飛行停止を米側に求めるよう日本政府に申し入れても、ほとんど真剣に対処されることはありませんでした。
日本政府が自らの意志で日米安保の安定的運用を優先させてきたからです。
(!超、情けない話だと思います!)

オスプレイの墜落では、海上保安庁が事故調査を申し入れましたが、米側は無視しました。
これにより、日本政府がものを言っても米軍に「ダメだ」と拒否されると何もできないことが誰の目にも明らかになりました。
CH53Eの事故で小野寺五典防衛相は、原因がはっきりするまで米軍に飛行停止を求めると記者会見で明言しました。
その直後に米軍は飛行再開を発表し、小野寺防衛相は面目をつぶされ「遺憾だ」とのべたものの、その後は再開容認に追い込まれました。
このことは、日本政府が米軍を追認することしか許されていないということを意味します。
重大事故が起きた時、防衛相ですらこけにされてしまうことが浮き彫りになりました。
(!ああっ!属国!)

翁長知事は「日本政府に当事者能力が無い」とコメントしましたが、これが日米安保の真実です。
(ウ~ム!怒!)

【しんぶん赤旗・日曜版・12/17・4面】より
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●パネルディスカッション●
*津田大介(つだ・だいすけ)=コーディネーター
・1973年、東京都生まれ。
早稲田大学社会科学部卒業。同大文学学術院教授、
大阪経済大情報社会学部客員教授。
ジャーナリズム、IT・ネットサービス、コンテンツビジネス、著作権問題などを専門分野に執筆活動。
ソーシャルメディアを利用した新しいジャーナリズムを実践する。
ーー
*田中優子(たなか・ゆうこ)法政大学総長
・1952年、横浜市生まれ。
2014年度から法政大総長に就任。
東京六大学初の女性総長となった。
専門は日本近世文化・アジア比較文化。
「江戸の想像力」で芸術選奨文部大臣新人賞、
「江戸百夢」で芸術選奨文部科学大臣賞・サントリー学芸賞。
1905年、紫綬褒章
ーー
*川平朝清(かびら・ちょうせい)昭和女子大名誉教授
・1927年、台湾・台中市生まれ、那覇市首里出身。
1957年、米ミシガン州立大学卒業。
戦後の沖縄でラジオ、テレビ放送の普及発展に尽力。
東京沖縄県人会長として本土と沖縄の親睦交流、琉球芸能などの県の観光、文化振興にも貢献し、2011年度の県功労者賞を受賞した。
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=見出し=
《デマで「溝」広がる》
《当事者意識持って》
《琉球史から差別感》
《(東京の)13区分が基地、平気か》

(津田)
私はウエブメディアをやっているが、ここ4年ぐらいで本土から見た沖縄が、いい意味でも悪い意味でも変わっていると思う。
ネットでは沖縄に対する言説はたくさん出ているが、フェイク(偽)ではというものがかなり流通し、デマのような情報も「事実として定着している。
昔に比べて(普天間飛行場の)辺野古への移設問題について知り、理解を示す本土の人たちは増えている。
一方、沖縄の人達の多くは「ここ数年で本土との溝が大きくなった」
「ネット上で沖縄に対する中傷が目立つ」
と感じているデータもある。
ーー
(!辺野古基地建設の強行、、。安倍政権の成立以降、とくにそうなっている!)
(割り込み)=「沖縄への中傷 苦難の歴史に理解欠く」=朝日新聞・12/22・社説、を読む。
⇒全文、読むべし!
ーー
「沖縄と本土との溝」を考える上で、本土の人間はこの問題にどう関わっていけばいいのか。
お二人から伺いたいと思う。

(田中)
1970年代前半に翁長知事と菅(義偉)官房長官と私は、ここ法政大学で学んでいた。
その時期に法大にいると、沖縄に対する関心を持たざるを得なかった。
1972年に沖縄が日本に復帰したとき、法大に「沖縄文化研究所」ができ、本土では沖縄研究の一大拠点となった。
私達は一年のとき外間守善教授の「おもろそうし」(沖縄の古典文学)の授業を受けた。
いつも沖縄がそばにあった気がする。
そのころベトナム戦争が続いており、そこへつなぐ拠点のようになった沖縄への関心も高まった。
(!そう、そう、、。)

(川平)
この衆院選では「憲法改正」という言葉がずいぶん流れた。
しかし、日米安保条約と日米地位協定が日本国憲法より上にあるという状態を、なぜいまの首相、内閣、国会は強く感じていないのか。
一例として、沖縄にある米軍基地の状況を見れば分かる。
沖縄本島は東京都の60%の面積を占める。
(・う~む!)
沖縄にある米軍基地を都に重ねると、千代田区や中央区など13区を合わせた面積になる。
これだけの基地を東京に集めたら、都民は平気でいられるだろうか。
全国民の問題として、この事実をとらえてほしい。
(その通り、全国民の問題ですよね)
--
=沖縄の歴史=

(田中)
琉球国はかつて中国に毎年のように施設を贈る冊封(さくほう)国だった。
{注:冊封=冊書(皇帝の命令書の一種)をもってほ封爵を授けること。漢代に始まる。さっぽう}=広辞苑}
ところが1609年、薩摩藩の軍事侵略を受けた。
この結果、1634年から琉球使節が江戸城にも参府することになった。
明治維新後に「琉球処分」で沖縄県とされ、琉球国は近代日本にある意味で植民地として組み入れられた。
日本の立場から、特に戦前的な見方からすると「琉球は自分たちの支配地じゃないか」となり、そこに差別感がうかがえる。
(う~む!)
かつて独立していながら、いまは日本であることを思えば、日本は沖縄がひとつの自治体として対等であり続けるために、何が必要なのか考えなければならないと思う。

(川平)
田中総長の話を聞き、祖父を思い出した。
祖父は1850年、琉球王国に仕える小姓(側近)として12歳のときに(琉球使節の)最後の江戸上がりに従った。
明治維新に送られた慶賀使にも入っており、「日本政府の国統合への意気は並々ならぬものがる」と感じる。
沖縄に戻ってからはヤマト(日本)派と清朝派による争いの中で非常に苦労した。
父は東京の徳川育英こう農業科(東京農大の前進)で養蚕を学んで沖縄に帰ったが、徳川の名のつく学校を出たものが重要されることはなく、不遇をかこつことになった。
こうした祖父と父の話が大変重みがあったことを覚えている。
(・川平先生は、1927年生、現在90歳、、かな。
江戸、明治時代の琉球、沖縄のお話し。
身近に感じます。)
ーーーーー
=米軍機事故、オスプレイ、、=

(田中)
沖縄県は日米地位協定の見直しを求めている。
事件事故がおきたときの情報提供や災害拡大防止措置の義務付けを盛り込むといった当たり前の改正案だ。
自治体が普通に要求して当然のことなのに、改正は実現しない。
私達はこの後押しや応援から始めてもいいと思う。
(・賛成!それにしても、日本政府にやる気がない。
何故だ!)
----------ー
ーーーーーー
(割り込み)=少し外れるが、田中優子総長の昔の文章を、、。
*「新しい友へー大学生活入門」
 (法政大学) 平成元年2月(1989年2月)出版 全197p
⇒(2018-1989=29)29年前の本。
(55 ページ)
【私の推薦図書―4年間に読んでほしい図書】
・下森定(法学部教授)
・川上忠雄(経済学部教授)
はじめ 16人が書いている。
(71 ページ)
田中 優子 (第一教養部助教授=当時)

(1)『アジア史論考』(上)、(中)、(下)
  (宮崎市定著・朝日新聞社刊)
中学高校ではなかなか学ぶことができないのが、アジアの歴史。
これからは必要な知識だ。
各論では様々な本が出ていて迷うところ。
その中で、ヨーロッパの歴史をふまえ、日本の歴史を大きな視野の中で距離をもって見ている本著が、まずは最適。
もっと手軽な本としては、同じ著者による『アジア史概説』がある。

(2)『日本社会と天皇制』(綱野善彦・岩波ブックレット)
一冊というより、この著者そのものを薦めたい。
沢山の著書がある。
その多くが推薦したい本である。
そのなかでも、これはもっともやさしい入門書だろう。
他に『異形の王権』『無縁・公界・楽』(平凡社)など。

(3)『新編・悪場所の発想』(廣松保著・筑摩書房)
此の場合も、一冊だけではなく著者の全体を勧めたい。
日本文化論のなかで、ほとんど正面から扱われていない遊行、漂泊民とその芸能に、日本文学との関係に視点をすえて迫っていく。
ほかに『辺界の悪所』『西鶴の小説』『漂泊の物語』(平凡社)
『可能性の芭蕉』(お茶の水書房)など。

(4)『酉陽雑爼(ゆようざっそ)』(平凡社・東洋文庫)
これは唐の百科事典ともいうべきもの。
古代的世界観、自然観が、不思議な物語やエピソードで書かれている。
この東洋文庫のシリーズは、アジアや日本の古代の本が多く、やさしく現代語訳されていて、ほかにもすすめたい本がたくさんある。
(終)
ーーーーーーーーーー
・ついでに、同じ「新しい友へー法政大学」の中の
(97ページ)
★和辻、三木、戸坂文庫をめぐって
 高橋 彦博 (社会科学部教授・図書館長)

どの大学の図書館にも、その図書館の宝物のように特別に保管されている稀覯書(きこうしょ)があります。
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・・・・・
大学の学問的水準を最も直接に示す指標が、その大学の図書館の蔵書の量と質であることは、確かであるといえます。
・・・・・
・・・・・
本日、皆さんに紹介するのは、法政大学図書館がその財産の主要な部分としている特色あるコレクションの例です。
コレクションの一種として個人文庫がありますが、ここでは何種類もある個人文庫の中の和辻、三木、戸坂の三文庫を選びました。
和辻哲郎、三木清、戸坂潤、という3人の著名な哲学者の蔵書が、文庫して法政大学図書館に納められているのは、偶然によるものとしてではありません。
この3人の哲学者は、それぞれ時期を追ってではありますが、1920年代から30年代にかけて、法政大学の教壇に立ちながら研究活動を展開した人たちでありました。
その経過をふまえ、関係者の努力と協力を得ることが出来た結果として、法政大学図書館は、和辻、三木、戸坂、の三文庫の所在を誇ることができているわけです。
和辻、三木、戸坂、という3人の哲学者の思考活動に、私達は、当時の法政大学の学問的雰囲気をうかがうことができますし、3人の文庫の所在に、法政大学の重要な歴史の何ページかを見ることができます。
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新幹線が走るまでは、和辻哲郎の『古寺巡礼』(1919年、初版)を片手に大和路を歩く旅にあこがれる学生が多かったのですが、最近はどうでしょうか。
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かつて、戦地におもむく青年が、この一冊を宿で紐解きながら奈良の山道を歩き、その旅の何日かを故国における最後の日にしようとしたとされる、その思いが伝わってくることでしょう。
『古寺巡礼』の戦後版にそう記さている青年とは、あるいは法政大学の学生であったのかもしれません。

和辻哲郎の著書としては、『風土』(1935年)も有名です。
おそらく皆さんは、日本人の人間的特性を「モンスーン的風土」との関連で解明しようとする魅力ある議論があることを、ご存知だと思います。
それが和辻理論です。
『古寺巡礼』もそうですが、『風土』も、日本的なものとは何か、という大きな問題に取り組んでいます。
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そのような和辻の比較文化論的視野の広大さを示しているのが、和辻の旧蔵書であり、当大学図書館蔵、洋書1600冊、和書3500冊、の和辻文庫の内容です。
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市ヶ谷キャンパスの図書館に入ると、3階ロビーの壁に、三木清を記念する銅版がはめこまれています。
その銅板には、三木が大学二年のとき、「永遠なるものを希求」すると認めた手記の一節が、刻まれています。
かつての哲学青年は、「永遠」を「希求」すると叫んで思索の世界に入りました。
今日、皆さんの場合、自伝的手記をひそかにまとめるとして、そこにどんな言葉を描きつけますか。

三木が皆さんと同じ年のころ、耽読したのは、西田幾多郎の『善の研究』(1911年)でした。
この本は、読む者を深い思考の世界に引きずり込まないではおかないふしぎな力をもっています。
思索の世界に旅立った哲学青年・三木は、まず、西田哲学に沈潜し、ついで西田哲学からの脱出をこころみました。
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(割り込みの割り込みー三木清から直接教えを受けた方の文章を。
むかし、よんだ。
おれなどは、勉強はできなかったが、忘れないようにしている、つもり)

●大学シリーズ・「法政大学ー受け継がれた自由と進歩」
 (毎日新聞社) 昭和46年=1971年

(116 ページ)
写真説明=哲学碑は69年館の中庭にある。
金属板に刻まれているのは、故人が大学2年のときのノート、つまり三木清の実筆からおこしたものだ。

写真説明=除幕式は、三木清の実弟三木繁氏、学校側から総長以下各学部長、それに三木清ゆかりの人々が参列、昭和45年(1970)1月19日に行われた。

【三木清の人間学ー哲学碑によせて】
 桝田 啓三郎 (東洋大学教授=当時)

・桝田啓三郎 (1904~1990)
法政大学卒業、法政大学教授、都立大学、千葉大学教授歴任、
著書、訳書多数、

・三木清が文学部哲学科の主任教授として法政大学に迎えられたのは、昭和2年のことで、彼が31歳のときであった。
京都大学では、西田幾多郎の後継者たることを自他ともに許す俊英としてしられていたけれども、『パスカルに於ける人間の研究』によって一部の人々の注目をひいたばかりで、一般にはまだその名を知られていなかった。
しかし着任の直後やつぎばやに発表した唯物史観に関する一連の研究論文が学会及び論壇を瞠目(どうもく)させ、やがてかれは新進気鋭の哲学者として、哲学及び社会科学の学徒たちに大きい影響をもつにいたった。

三木清は、それらの研究によって、我が国おいて初めて、講壇哲学の壁を破ってマルクス主義に通じさせたのであったが、それが当時の学徒たちとっていかに大きい救いの力であったか、今日では想像もつかないであろう。
私達の世代はみなひとときは三木哲学の徒であったといっていい。

法政大学の文学部は、漱石門下の著名な作家や文学者が中心となって設立された学部で、当時それだけでも異彩を放っていたが、三木清が加わってからにわかに活気をおび、今日なお法政文科の黄金時代として語り伝えられるような隆盛をみるにいたった。
彼に指導された私達の哲学科もまた、一種独特のイメージを人々に植えつけ、それが今日に至るまで多くの人々の記憶に生き続けているのである。
三木清の唯物史観の指導理念は人間学であった。
あらゆる理論はその根底に一定の自己解釈を含んでいる。
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(以下重要なところだが、長くなるから、略)
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三木清は、生涯、人間存在の根拠を情熱的に問い続けたが、この問いはいわば人間三木清の本性であったといえる。
彼が大学2年のときに書いた一種の告白『語られざる哲学』がそれを確証してくれる。
(昭和)45年(1970)1月、69年館の中庭の壁に建立された哲学碑に刻まれた左の碑文はこの文章のなかから選ばれている。

「私は自己の衷(うち)に深く感じる必然の運命の故に永遠なるものを希求せずにはゐられない。
寂しさや悲しさや運命などと云うことが、結局征服されてしまうことが出来るか否かを私は知らない。
唯一つ私が知っているように思うことは、寂しさや悲しさや運命と云うことが本当に何を意味しているかは、私達が生血の出るような真面目な努力をしてそれを滅ぼそうとした後において初めて理解されることである」

三木清の伝統といえるものが私達の大学に継承されているかどうか私は知らない。
しかし、この碑文に記する心を心として、学生諸君が真摯に、そして謙虚に学び、そして生きてくれるならば、そこにおのずから伝統が作られてくるであろう。
私は直接三木清の教えを受けた一人として、それを願いかつ祈ってやまない。
三木清は最後まで私達の母校を愛し将来を気づかってくれたのである。
(桝田・終)
写真説明=昭和2年(1927)5月、哲学科教授となった三木清の講義には、ほかの大学からも、こっそりと盗講にくる学生があるというほどの人気だった。
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(もう一人、三木清、谷川徹三に直接教えを受けた方の文章を。)
前と同じ本、(112ページ)
●漱石山脈と西田山脈●
  ・詩人 藤原 定

・藤原定(1905~1990)
法政大学卒業。元法政大学教授、詩人
著書、多数。

・法政大学、、、、、
夏目漱石門下の当時最高の文化人たちによって大正創業期の基礎が築かれ、その上で西田哲学畑の少壮学者たちによって大戦前の隆盛期がもたらされたといえよう。

漱石門下の野上豊一郎先生は東大英文卒後まもなくこの学校につとめ、大正9年に旧制の高校に該当する大学が予科新設された時 予科長に就任された。
と同時にその二年後に開講される文学部の教授陣の構想をたてて人材を集めた。
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安倍能成先生
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和辻哲郎先生
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森田草平先生
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内田百閒先生
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関口存男(ドイツ語) 
片山敏彦、多田基、、、。
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・・・・・・・
安倍、和辻両先生は在職4年で京城や京都の帝大教授として転任された。
安倍先生は月給が安かったうえに海外遊学できる望みがなかったからだと、のちに述懐している。
それは当然であろうが、こういうことはどの学部でもつぎつぎにおきたので、われわれ学生の側からすると、法政はとくに東大出の少壮学者が各帝大へ栄転するためのしばしの控室として利用されているのではないか、というひがみをもった。
(そうそう、”東大植民地”といわれていましたね。60年代も。)

それにくらべ森田、内田両先生は長く在職されたが、野上先生の35年間にはとうていおよばない。
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昭和に入ってから法政文学部は、、、、。
心理学の城戸幡太郎、社会学の松本潤一郎などの諸先生がすでに在職されていたうえに、昭和2年には、三木清先生、翌年には谷川徹三先生を哲学科に迎えることができたからである。
それに同門の田中美知太郎、林達郎先生などを加えて哲学科は由緒ある京都大学哲学科を再生・生新化せしめたような新風をおびた。
・・・・・・
・・・・・・
(そのころの)学生数は文学部全部で200名前後にすぎず今日の1割にも達しないだろうが、その中から有能な人々が育っていった。
哲学系の桝田啓三郎(東洋大)、池島重信、長谷川進(本学)、
英文の村山英太郎(明治大学)、独語の藤田栄(芝浦工大)、
少し遅れて仏文の斎藤磯雄(明大)、蛯原徳夫(青山学院大)、
日文の小田切秀雄)、哲学の福田定良や、作家の長谷川四郎等々で
母校の教授になった人々は挙げきれない。

三木清先生は西田幾多郎先生の愛弟子でドイツではハイデッガーに学び、来任期にすでに『パスカルに於ける人間の研究』によって哲学界に新風をまきおこしていた。
先の漱石山脈系の学者たちは一般に教養派とよばれていたが、教養派がもたなかったアクチュアリティーを先生はその血の中にもっていた。
時代はちょうど世界恐慌に日本もまきこまれ、マルクス主義運動の高潮期にあたっていた。
法政にこられてからの先生は主にマルクス主義と哲学との間に橋渡しをすること、その存在理由を哲学的な解明といったことに情熱をそそがれた。
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先生の哲学の特質は社会や文化に対する主観ではなく、客観性を踏まえたもので、私達は深い影響を受けた。

谷川徹三先生は三木先生と同期の西田幾多郎門下であり、大正末にすぐれた哲学的エッセー『感傷と反省』があった。
志賀直哉、和辻哲郎などと親交し、東西古今の文学美術に深い理解と批評眼をもっていて、評論界においても指導的な役割を果たしてきた。
・・・・
ユネスコ運動・・・
世界連邦運動・・
『東と西との間の日本』・・
『宮沢賢治の世界』(法政大学出版局)・・・
・・・・・・
ふたたび当時にもどると、畏友桝田啓三郎君や私などが卒業した昭和5年(1930)の5月に三木先生は日本共産党への資金提供という嫌疑で検挙され、半年後に釈放された。
谷川、豊島両先生の奔走や西田博士の尽力にもかかわらず、文部省は先生の復帰を承認しなかった。
やむをえず谷川先生の口座の名義で三木先生が講義するという便法が講ぜられたり、やはり西田学派の、その最左翼の戸坂潤教授が来任したりした。

ファシズムへの暗い傾斜のただ中に三木先生はなおも屈せず、昭和8年、言論の自由を守るための知識人の結束をくわだてたが、その「学芸自由同盟」はあえなく官憲に粉砕された。
先生は果敢な抵抗をつづけ、思想界の第一人者としてつねに巻頭論文を書き、またさまざまな哲学・思想の講座や辞典編集の指導者として、時代に適応した創意を示した。
戦時中は無名の庶民でさえも口をつつしみ恐れていたが、攻撃型の三木先生は保身にはあまりに大ばっぱであった。
昭和20年3月に検挙され、唯物論研究会を組織し、責任者として活動した戸坂潤教授もおなじ治安維持法の網にかかり、先生と同じ悲運に見舞われた。
その抵抗をどのように讃えようとも、この非業の死の無念さは帳消しにならない。
先生が敗れたところから学び取るべきものがあるのではないだろうか。
なお三木先生には以上の時務面や哲学的著作のほかに、宗教への関心があったことを忘れるべきではない。
・・・・・
(大事なところだが略)
遺稿は『親鸞』であった。
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三木先生は以上のような繁忙な生活の中で、退職後もわれわれ門下生の数名の請いを入れて、たしか昭和11年から12年にかけて、神田のYMCAの小室を借りて月例の研究発表をしてくださった。
それは三木哲学の体系化をもめざした試論『構想力の論理』となってのちに発表された。
この小さな集まりにはわれわれ卒業生のほかに東大出の中村哲氏(現=1970、総長)なども加わっていた。
この会を思い出すたびに私はなつかしくこころあたたまる。
そこには学問への情熱と師弟愛以外のなにものなかったからである。
権力にたいしては果敢であった先生が門下生に対してはやさしく内気であったのは不思議なくらいであった。
桝田君が訪ねたとき「藤原にはもっと勉強するように君から注意したまえ」といわれたそうだが、私には「桝田に読んでばかりおらず、少しは書くように君からすすめたまえ」と言われた。
戦後の戦後の著作集、近年の全集(「19巻、岩波書店)はともにこの篤学の畏友のゆきとどいた編集による。

谷川(徹三)先生や片山敏彦先生から私が受けた影響はとうていひと口には言えない。
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愛弟子福田定良や池島(重信)氏たちもこうした先生の保護を受けたことだろう。

谷川先生は戦後10年間文学部長をつとめ、昭和38年から3年間、全学から推されて総長に就任された。
期せずして(漱石と西田)両山脈からひとりずつ総長が選ばれたわけである。
しかしおよそ政治的ではない先生がこの多難な職責をりっぱに果たされたのはただ先生の識見と誠実、それに内外の信望が厚かったからである。
(終)
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(高橋博彦図書館長続き)
(三木文庫)
洋書3700冊、和書4400冊の三木文庫は、和辻文庫とともに数多くの貴重書を含んでおり、すでに研究者の便に供されています。
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一人の風変りなマルクス主義者がいました。
この風変わりなマルクス主義者は「日常性」を重視し、「常識」を到達目標であると論じていました。
これは、当時のマルクス主義の標準的水準では、とても考えられないことでした。
国家体制(レジーム)の変革に社会体制(システム)の変容を包摂させていた国家主義的マルクス主義においては、意識と行動における「日常性」の突破が課題であり、「常識」を越えたところに化学があるとされていたからです。
そのようなマルクス主義の固定観念を打ち破る形で、しかし、あくまでマルクス主義の立場で、「日常性」と「常識」を新たな文脈に位置づける理論実験に取り組んだのは、戸坂潤であり、彼の論集『日本イデオロギー論』(1935)でした。
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おそらく、戸坂という風変わりなマルクス主義者のイデオロギーの質を分析するキー・ワードは、戸坂における「闊達」さとなることでしょう。
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戸坂の蔵書が散逸しないままこの図書館に移され、和洋2000冊の文庫となったその過程を確定しないと、・・・・・雰囲気としては戸坂の思想的包括性を指摘して間違いなさそうです。
戸坂にあっては、マルクス主義なるものが「日常性」に包み込まれ「常識」の内容になっていたのだと思います。
三木も含めて戸坂をも、「文化的自由主義」の影響圏にあった思索家と見るべきなのかもしれません。
(館長・終)
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(読んだ)
*古在由重 『戸坂潤のこと』  1948
*宮本顕治 『野上さんのこと』 1985
*不破哲三 『基地のない沖縄をめざして 現状と前途を考える』 2018
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【東京新聞に戻ろう】
♪「絆はいつまでも」-『歌に思い込め』♪

*上間綾乃(うえま・あやの) さん

*古謝美佐子(こじゃ・みさこ) さん
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◎琉球新報・読者事業局長
  潮平 芳和
・今回は大変意義のあるフォーラムを開催することができた。
昨年度、沖縄への観光客が過去最多の約977万人に上る一方で、米軍基地を含む数多くの課題が影を落としている。
このフォーラムを通じて、聴講者にもご自身の問題として考えてもらいたい。
(はい!)

◎東京新聞代表
  水野 和伸
・沖縄の地元紙・琉球新報社、沖縄文化研究所を擁する法政大の協力で、フォーラムを開催する運びとなった。
悪天候の中、沖縄県の翁長知事をはじめ、法政大の田中総長やパネリストの皆さんに参加いただいた。
最前線で活躍するミュージシャンによる沖縄音楽ライブも楽しんでほしい。
(拍手)

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