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June 19, 2018

新聞から本へ。読んで、写す。

2018年6月X日
*集い。講演会の案内、Y教授ー日朝問題、、。
*9条の会ー国民投票法問題。
ーーーーー
★「父の日」、実は、孫の日、で遊園地へ。荒川の。
6人で、都電に乗る。
見事な孔雀を見る。
好きな乗り物は、アンパンマン、トーマス君、のミニ電車、パンダ🐼の自動車、、。
孫、2歳5か月、片言で言う言葉、「・・・チョト、マッテネ・・・」
八ツ!両親は看護師。
忙しいのだろう。
ーーーーーー
◎新聞を読む。
【朝日新聞・2017年6月7日・木・夕刊】
(5面)
《古都ものがたり・・京都》
【鈴木大拙の研究支えた大谷大学】
=慕われた教授 思想は世界へ=

・写真説明=大谷大学の京都移転当時に建てられ、大正時代の面影を伝える尋源館(旧本館)。
大拙もここで講義した=京都市北区、槌谷綾二撮影
(ごあんない)
大谷大学(京都市北区)には、1913(大正2)年に本館として建設された「尋源館」(じんげんかん)が残る。
瓦屋根に青銅の塔のある赤れんが造りの2階建て。
81~82年の工事で、建物の両端を取り除いて内部を全面改修したが、赤レンガの壁やアーチ形の窓、車止めなどの外観は建設当時のまま。
2000年に国の登録有形文化財に指定された。
三島由紀夫の小説「金閣寺」にも登場し、映画化のたびにロケ地となったほか、市川雷蔵主演の映画「陸軍中野学校」にも兵舎として登場する。
一般公開されており、見学の際は守衛室に希望を伝える。

*鈴木大拙
1870年、金沢市生まれ。
本名・貞太郎(ていたろう)
多くの著作や講義などで禅や東洋思想を広く海外に紹介。
1949年に文化勲章受章。
1966年没。

(本文)
京都御苑の北約1キロ、烏丸通沿いに大谷大学がある。
1921年、後に世界的な仏教哲学者となる鈴木大拙が教授として赴任した。
若い頃から大拙は禅の授業に励んで大乗仏教を独学し、1897年に渡米。
出版社で翻訳などに携わった後、1909年に帰国。
当時は、学習院や東京帝大で英語などを教えていた。
・・・・・・
途中略
読むべし。
・・・・・・
戦後、大拙は1950年に再び渡米。
欧米各地で講義や講演を続け、仏教哲学者として世界的に高く評価された。
大谷大教授は90歳まで続けた。
晩年の講義は「他大学の教授らがたくさん聴講に来て、学生たちは教室の隅っこで小さくなっていたそうです」と木村(=大谷大元学長・74)。
2011年には金沢市に鈴木大拙館も開館した。
館長を務める木村は「入館者は30万人を超えた。最近は3割が外国人」と言う。
京都で飛躍した大拙の思想は、今も世界から求められている。
=敬称略(池田洋一郎)
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*僕は、この記事を読んで、天然色の写真をみて、なにか、あーっと、、、。
そして、
深い理由はないが、次の本を読んで書き写してみようと思った。
ーーーー
●日野原重明 著
  「現代医学と宗教」
  (岩波書店)  1997年

(26p)=第2章 死をどう生きたか
1 鈴木大拙師の臨終

大乗仏教思想や禅の学者として、日本だけでなく、西洋の宗教界や哲学者の間に著名であった鈴木大拙師が、ニューヨーク市のコロンビア大学の教授職を辞して日本に帰られ、鎌倉に住むようになられてから、私は大拙師の主治医となった。

私が初めて大拙師にお会いしたのは1960(昭和35)年3月で、師は90歳、私の勤める聖路加国際病院の人間ドックに入院された時のことである。
(・日野原先生は1911年生まれ。1960年と云うと、医師49歳の時かな。)

先生はその時、変動性の高血圧症があることがチェックされたので、以来、月に一度は秘書の岡村美穂子さんに付き添われて、聖路加国際病院の私の外来に通われた。
岡村さんが、自宅での大拙師の血圧を測定し、私はその数値を電話で知らせてもらって、変動のひどい血圧値に応じて、降圧剤の処方を適宜かえることで対応していた。

先生は高血圧症のほかには、特別な身体的障害はなく、90歳を過ぎた高齢にもかかわらず、浄土真宗の親鸞聖人の「教行信証」の経典の英訳という大事業に日々兆戦しておられた。
1966(昭和41)年7月11日、師はあと3か月で96歳の誕生日を迎えられようとしていた日の早朝、秘書から師の急変が電話で私の宅に知らされた。
大拙師は、その前夜遅くまで軽井沢への避暑の準備をされていたが、翌朝朝に突然強い腹痛を訴え、嘔吐が伴った。
近医の処置を受けられたが、腹痛は止まらず、原因は急性腸閉そくの疑いということで、手術を受けるために東京・築地の聖路加国際病院まで救急車で運ばれることになった。
途中、交通渋滞のため3時間もかかって、ようやく病院に着かれた。
入院時の先生の意識はまだ明瞭であったが、一見ショック状態で、きわめて重篤な症状であることがわかった。

「どんなふうにお腹が痛いですか」と尋ねると、
「どうということはないが、痛いのはかなわんです」と答えられた。
診察の上、腹部レントゲン写真を撮ると、明らかに腸閉そくの所見がったので、開腹手術のほかに切り抜ける手立てはないと思ったが、血圧低下が甚だしく、手術は危険とされた。
 
私は、「病気はずいぶん重いのです」と率直に申し上げたらうなずかれ、さらに「最善を尽くします」と云うと、苦しい中から感謝の気持ちを示された。
かなりひどい腹痛の様子がうかがわれたので、モルヒネの皮下注射を少量ずつくり返した。
師に「苦しいでしょうね」と聞くと、またうなずかれるのであった。

夜の11時すぎ、鎌倉の円覚寺の朝比奈宗源管長がお見舞いに病室に入られ、しばらく枕元に黙して座っておられた。
先生の容態はますます悪化し、輸血や昇圧剤の静脈注射がくり返され、酸素テントが用意された。
付き添っていた秘書の岡村さん以外の方の面会はすべて断って、延命処置が続けられた。
翌朝の午前二時、死亡される2時間前に、私は
「お寺の要職の方々が心配して病室の外で待っておられますが、お会いになりますか」と尋ねたところ、
「誰にも会わなくても良い。一人でよい」と答えて眼を閉じられた。
手を握り続けていた岡村さんが、
「何かほしいですか」と尋ねると、大拙師は、
「いや何もいらない、ありがとう」と言われ、その言葉が最後であった。
岡村さんは酸素テントの中で息を引きとられる大拙師の枕元の椅子に、一晩中まんじりともせず座っておられた。
師の弟子で、京都大学文学部の西谷啓治教授は、師の遺体が鎌倉に帰宅した夜の岡村さんとの対話を、次のように書いておられる。

(西谷啓治「鈴木大拙先生のこと」、西谷啓治編『回想 鈴木大拙』春秋社、1975年、収載。)
岡村さんは病院で、息を引きとられた先生の傍らに付き添っていながら、先生がそこに動かずに横たわっていられることが、生きていられることの続きのように思えて、生きている先生と死なれた先生の間には、さほど大きな変化の起こったような気がしなかった、と言われたのである。

先生の急病は、解剖の結果、拘緊性腸閉塞と診断された。
腸間膜にヒモのようなものができており、それがからんで小腸を絞め、腸閉塞をおこし、腸壁に出血と壊死が見られたのである。

米国籍の夫人を亡くされた後独り身の師は、ただ激しい痛みに絶えつつ、若い秘書に付き添われて静かに生を終えられた。
師の終焉は、静謐そのもであった。
生前に書いて下さった色紙の、
「無事」(一切の作為を離れた大自然のあり方)という禅の思想の神髄で師は見事に瞑されたのだ、と私は感じた。
(終)
合掌

★医とは、宗教家とは、随分と冷静で科学的なものだと、思う。

◎日野原重明◎
・元聖路加国際病院院長。
1911年生まれ。
2017年没。
享年 106歳。

合掌


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