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June 03, 2018

TBS・「サンデーモーニング」・・・・。

2018年5月X日 (日曜日)

★TBS 「サンデーモーニング」 を見る。
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◎本を読んで写す。
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★佐高 信(Sataka Makoto) x 岸井 成格(Kishii Shigetada)
   『政治言論』 (毎日新聞社) 2006年

・2018ー2006=12・ 12年前の本だ。
表紙の写真、お二人、左=佐高氏 右=岸井氏、若い。
(岸井氏・2018年5月逝去・享年72歳)

(12p)【序章・大学の同期生として】

*佐高
TBS系列の関口宏の「サンデーモーニング」を見ている人からは「良く岸井さんと一緒に出演されているけれど、政治的立場はまるで合わないでしょうね。
喧嘩ばかりしているんじゃないですか?」
と言われるんだ。
それは確かにその通りなんだけれど(笑)、
私達はじつは慶應義塾大学の法学部で峰村光郎ゼミの同期なんだよね。
この本の序章として、二人の出会いというか、学生時代の話をしておきたいんだけど。

《文集『雑学志向』の頃》
⁂岸井
俺の学歴はちょっと変わっていて、経済学部から法学部に転部しているんだ。
別に佐高に会うために移ったわけではないよ(笑)。
中学時代の校長先生が峰村光郎せんせいだったから、その縁で峰村ゼミに入ろうと思ったのと、もう一つ、ケネディが書いた『勇気ある人々』という本の影響があった。
その中でケネディはリーダーの資格を三つ挙げていたんだよな。
一つは軍隊経験。
これは日本では無理だ。
あとの二つは弁護士とジャーナリスト。
この三つが揃っていれば申し分ないけれども、二つ経験していれば相当にいいリーダーになり得る、という記述があったんだ。
それで、ジャーナリスト志望はすでに固まっていたんだけど、弁護士資格も取ろうと考えて法学部に転部した。
・・・・・
・・・・・
⁂岸井
しかも目標は国際弁護士。
甘く考えたんだね。
峰村先生のところへ行って、「転部したい」と言って相談したんだよ。
・・・・・
・・・・・
⁂岸井
入ゼミ試験の作文で、俺はまさに『勇気ある人々』について書いたよ。
峰村先生は慶應らしくない異色な、ものすごい謹厳な人だった。
ドイツ哲学だよな。
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*佐高
私も慶應を受けるときには峰村光郎という人が頭にあったな。
あのゼミは人気が高かったけど、成績では取らなかった。
入ゼミ試験は作文だけだったよな。
いま考えると、私はどうして通ったのかなと思うことがある。
・・・・・
・・・・・
*佐高
信州の出身で、よく「税金で勉強している国公立のやつらに負けるな」ということを言われたよね。
峰村先生の学生時代はマルクス主義全盛時代だった。
先輩に野呂栄太郎がいるわけだよね。
野呂栄太郎からレーニンの「国家と革命」を原書で教わったと言っていた。
その後ある種の転向体験があったと思うんだけど。
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《福沢諭吉の現代性》
⁂岸井
俺は中学、高校の自分は福沢教だからね。
慶応に入ったんだから福沢諭吉ぐらい知らないといかんというので、仲間を集めて福沢研究会をつくったり、中学の時は毎月墓参りをしていた。
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(22p)
《小泉信三の人間的奥行き》
・・・
*佐高
小泉信三先生のところも訪ねたとか。

⁂岸井
信三先生のところへは中学の頃からだな。
とにかく福沢諭吉のことを知りたくてね。
直接謦咳(けいがい)に接しておられた信三先生の話を聞きたくて、南麻布のお宅へ押しかけたりしたんだけど、驚いたのは、あの大先生が自分で紅茶をいれてクッキーを持って来てくれるんだ。
じつに対等な付き合いの仕方をするんだよ。
俺は高校で生徒会長になって、連続講演会というのを始めたんだけれども、その第一回は信三先生に来ていただいた。
俺だけ話を聞いているのがもったいないと思ってさ。
そうしたら高校の先生たちがみんな嘆いてな。
ふだんの悪ガキたちが、小泉先生だとなんでみんな静かに最後まで話を聴いているんだ、とね。

*佐高
私は岸井が良く言う左翼思想の偏狭さが災いして、大学時代、小泉信三の講演は敢えて聴きに行かなかった。
いま考えると惜しいことをしたね。
小泉信三は『共産主義批判の常識』を書くわけれども、一方で思想弾圧を受けて官憲に追われていた野呂栄太郎に便宜をはからうでしょう。

⁂岸井
たしか、野呂栄太郎が卒論の『日本資本主義発達史』を書き上げるあいだ、自宅に匿ったんだな。

*佐高
そういう人だったのかと知った時に、「しまった!」と思った。
当時は、小泉信三なんて冗談じゃないぞ、という気分だったからな。
・・・
ーーーーー
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(26p)
《全学スト、バリケードの中の風景》
*佐高
ところで学費値上げ反対闘争の時は、岸井はどうしていたんだっけ?

⁂岸井
俺はアメリカに行ってた(笑)
『ニューヨークタイムズ』で慶應の全学ストを知るんだ。
あれは写真付きの記事だったな。
俺はいろいろ欲があったから、東京イングリッシュセンターという、ビジネス英語を教えるという学校の第1期生になった。
・・・・
・・・・
蔦信彦なんかは日吉の全学学生議長で、退学覚悟で闘っていたわけだけどな。

*佐高
三田のリーダーは栗本慎一郎。
それで栗本が最後に日和って明けわたす。
・・・・・
・・・・・
*佐高
あの頃『東大新聞』元編集長の池田信一という人が「学生気質」というのを『毎日新聞』に書いていて、慶応の全学ストライキのことを「ホームラン性の大ファウル」と言ったんだ。
あの闘争は、我々の授業料が値上げされるということに対してじゃないんだよね。
将来の話なんだよ。
だから自分たちに直接関係ない話なんだけど、慶應が金持ちの坊ちゃんお嬢ちゃんだけの学校になるのを認めるのか、という問題提起だった。
(・そう、そう、大切なことですよね。)

あの時バリケードの中に泊まり込んで、いまでも鮮明に覚えている風景があるんだ。
女性というのは、いい家に育ったお嬢さんでも、けっこう真面目に現実と向き合うところがあるでしょう。
・・・・
・・・・
*佐高
ところが大半の男は、自分たちがそこに参加するという発想がないんだよ。
それでいて アカの運動みたいなものだという意識だけはあるから、女の子がバリケードに立てこもっているのが心配なわけ。
そうすると、チョコレートか何か買ってきて、「バリケードの中にいつまでいるの?」とか言いながら、女の子にチョコレートを差し出して「バカ」とか言われている(笑)。
男と女の、その意識の落差みたいなものが印象に残っている。

⁂岸井
・・・・
・・・・
それにしても、二人とも女性にはあまり縁がなかったな。

*佐高
以前、吉永みち子に学生時代の話をしたら、
「佐高さん、よく勉強したのね」と感心しているから、
「学生時代モテない男は勉強するしかないんだ」と言ったわけ。
そうしたら、「じゃあ、モテない女はどうすりゃいいのよ」と切り返されたことがあったけどね(笑)。
(👏)

⁂岸井―そりゃおかしい(笑)
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【割り込み】
★慶大 学費闘争★
昭和40 (1964)年・
(2018-1964=54) 54年前だ。
〈毎日新聞社・昭和史全記録〉より。

1・21=慶応大学で、授業料など文科系で13万円から一挙に28万5千円えの大幅値上げに反対する学生側の全塾自治会が正午から学内で10時間にわたって「学費値上げ阻止抗議集会」を開き、理事者側を質問攻めにし、高村象平塾長との直接交渉を求め、翌日会うとの約束で散会。

1・23=塾長会見がすっぽかされ、一部授業放棄に入る。

1・28=大学側が値上げ白紙還元に拒否回答をしたため、三田校舎では一時間目の授業から授業放棄。
日吉公社でも前日に続き全クラスで第一時限から授業放棄。
初の全学スト。
校門にバリケード。

2・1=日吉校舎、無期限ストに突入。

2・2=学校は4日からの学期末試験を延期、4年生だけが8日から試験と発表。
学生側は三田校舎で全塾大会を開き、8500人の学生が集まり、投票の結果、
①4日から再び授業放棄に突入、学期末試験の延期に対しては同盟登校で応じる、
②8日からの4年生の学期末試験をボイコットする、
との決議案を可決した。

2・3=四試ボイコットをめぐり、就職を控え4年生が動揺する一方、OBの連合三田会が、塾の名誉をかけて動き出す。
理事者側と学生代表の5回目の話し合いで大学当局が「値上げ全般について再検討する」と回答。

2・5=深夜慶応病院に入院中の高村塾長が学生代表を呼び、連合三田会のあっせん案を塾長提案とする形で
①塾債(10万円)の応募は入学の条件としない、
②奨学金制度を大幅に強化し、新設の設備拡充費(10万円)による入学の機会均等の不公平を是正する、
③学生に関係の深いことについては、自治委員会と事前に話し合いの場を作る、
④紛争の学生側処分者は出さない、
といった新提案を示した。

学生側は、午後2時から全塾学生大会を開き、塾長提案を正式文書として認めさせることを運動方針とする事実上の妥結方針を4313票の過半数の賛成で可決した。
四試ボイコットで白紙還元まで闘うとする1,2年生を中心の日吉の動議は1852票で敗れた。
(・ふむ。佐高さんは、日吉におられたのかな。白紙還元=1852票、立派ですよ。)

2・8=卒業試験開始。

(慶大闘争・終)
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本に戻って、少し、飛んで。
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(144p)
《東大新人会を皮切りに》
*佐高
岸井のおやじさんは東大新人会の生き残りだとかいう話を聞いたことがあるけど。

⁂岸井
生き残りというよりも、新人会結成に関わったメンバーは麻生久とか赤松克麿とか10人ぐらいいるんだけれども、おやじの三高時代の親友が多いんだよ。
・・・・
〔注:(東大)新人会=1918年(大正7)吉野作造、麻生久らが後援し、赤松克麿・宮崎竜介らによって結成された東京帝国大学内の社会主義学生の思想運動団体。29年解散。=広辞苑・7版〕
・・・・
*佐高
おやじさんは三高だったんだ。
岸井何というの。

⁂岸井
岸井寿郎。
・・・・
・・・・
⁂岸井
1918年が東大新人会結成でしょう。
その後おやじは新人会の流れで検事になったものだから、思想犯をみんな釈放しちゃった。
それで上層部と衝突ばかりしていたそうだよ。
そんなことで居づらくなっていた頃、1920年かな、『東京日日新聞』の記者だった麻生久が足尾銅山の労働運動に飛び込むというので、その代わりに新聞社に入らないかと言われて、えらく簡単に入社したみたいね。
・・・・
・・・・
佐高
後に自民党の政治家になった堀茂が部下だったとか?

岸井
そうよ。
おやじは堀と対立しちゃうんだよね。
「光文」事件があって、政治部が刷新されるわけだよ。
そのあとの立て直し政治部長に、おやじが抜擢されるんだ。

佐高
「光文」事件というのは、要するに元号に関する誤報だね。
「大正」から「昭和」になる時に、『毎日』が「光文」だと報じた。

岸井
わが社としては、実際に「光文」で決まっていたけれども、それを『毎日』がすっぱ抜いたから「昭和」にひっくり返されたということになっている。
筋を通しているわけ(笑)。
・・・・・・
・・・・・・
佐高
政治家になったのはいつなの?

岸井
1942年の翼賛選挙から。
あれは第二次世界大戦中唯一の国政選挙だったから、最後の帝国議会議員ということになる。
政党はもうすでに解散させられて無くなっていた時期だな。
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<少し、戻る>
(141ページ)
*佐高
岸井は親子2代、毎日新聞の政治部長でしょう。

⁂岸井
そう。珍しいケースだろうな。
三高以来の親友だった麻生久のかわりに、おやじは検事を辞めて東京日日新聞(毎日新聞の前身)に途中入社したんだ。
おやじは戦後政治とのかかわりもあるんだよ。
帝国議会最後の議員だったから。
『鳩山一郎日記』の1945年8月15日の終戦記念日の前後一週間、軽井沢にいた鳩山が毎日のように「岸井来る」「岸井来る」と書いている。
つまり戦後処理と、次の政党政治をどうするかという相談をしていた。
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(146p)=《戦後政治の起点》
*佐高
戦後は?

*佐高
じゃあ岸井の学生時代、おやじさんは・・・・・

⁂岸井
公職追放だよ。
『報知新聞』の再建に関わろうとしたけれども、これも公職に該当するからだめだと言われたりして、その後、河出書房の会長になるんだよ。
三豊中学の後輩の河出孝雄社長から「うちの会長をやってくれませんか」と言われて、倒産するまでずっと会長をやってたよ。
河出はその後、新社として再建されたわけだ。

⁂岸井
河出の会長だった。
家の中は本だらけだったよ。

⁂岸井
・・・・・
・・・・・
おやじの個人的な話はこのへんにして、政治に関わるところから言えば、この間も話したけれど『鳩山一郎日記』の終戦8月15日前後に連日のように「岸井来る」という記述があるわけよ。
おやじはずいぶん早い段階から「もう日本は戦争に負ける」と言っていたと云うんだよ。
斎藤隆夫の反軍演説ほど有名じゃないけれども、やはり終戦前におやじの演説が問題になって、議事録から削除され、おやじには毎日、憲兵がついていた。
東条英機の娘婿の憲兵隊長がずっと家を張っていたんだ。
そしておやじは憲兵に拘束されるんだからね。

*おやじさん、非翼賛だったの?

⁂岸井
非翼賛だよ。
鳩山一郎も1942年の選挙は非翼賛だったし、43年には翼賛政治会を脱退するわけだから、そういう関係があったんだろう。
・・・・・・
ーーーーーーーーー
もどって、
(65p)
《自民党の(旧)民主党対策、そしてメディア戦略》
・・・・・
⁂岸井
(安倍第一次内閣)
ーー
だから安倍にとっては丹羽は兄貴分だよね。
その上に橋竜がいたわけだ。
安倍が厚生族に入っていいたのは、おそらく、いろいろな人のアドバイスだと思う。
尾身の知恵もあったんじゃないかな。
「お坊ちゃま育ちは弱者の痛みがわからない」と言われがちだからね。
そして安倍は猛烈に勉強した。

一方で、丹羽ははじめとして今回の三役人事はある意味で画期的よ。
幹事長の中川秀直が日経、
総務会長の丹羽が読売、
石原伸晃幹事長代理は日テレ、
それで一時津島派が三役を死守するだろうと言われていて、その時点では久間と額賀が入れ代わって、おそらく額賀は政調会長に戻るんじゃないかという見方が有力にあった。
額賀は産経なんだ。
そうすると、場合によっては、日経、産経、読売、日テレと、全員記者出身で占められる可能性があった。
こんなことは、いままでの自民党史上で初めてだよ。

それと、最近の自民党で重要な動きは、佐高は怒るかもしれないけれども、情報調査局の存在じゃないかな。
昔の自民党は大らかで、新聞で何を書こうと、テレビで文化人が何をしゃべろうと、そんなことはあまり気にしていなかった。
ところがいまは、情報調査局が、日々各紙の論調を分析し、テレビ番組もすべてチェックしている。
これが検閲になったら問題だけれども。

*佐高
そのトップは誰なの?

⁂岸井
毎日出身の鈴木恒夫衆院議員。河野派の。

*佐高
元・新自由クラブか。

⁂岸井
そう。 新聞社出身が圧倒的に多い。

*佐高
それはメディアが権力に屈服したということだよ。

⁂岸井
佐高はそう言うかもしれないけれども、これは間違いなく、世論とメディア戦略が、今後の政局運営や選挙と切り離せないという意識の現れだよ。

*佐高
最近の、NHKに対する「拉致問題を扱うように」という放送命令なんかを見ても、政府は明らかにメディア統制を強めようとしている。

⁂岸井
あれはおかしい。
NHKは突っぱねるべきだと俺も思うよ。
ただ、それは今回の人事とは別に批判すべき問題だな。

(・12年前の対談。
その後の推移をみれば、マスコミ統制、特にNHKへのそれは進んでいる。
皆で突っぱねなくてはならん!)
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・かなり飛んで、
(170ページ)
■共産党スクープ秘話■
⁂岸井
俺は野党担当で共産党を持ったこともあるんだ。
あの時は二つの連続スクープを取っている。
宗教テーゼだと、共産党と創価学会の和解を破棄するというのと。
これ、俺のスクープ。

*佐高
宗教テーゼって、何?。

⁂岸井
科学的社会主義の立場であっても、信教の自由は認めるというやつ。
それは創価学会との和解を模索する前のテーゼだよ。
それで松本清張が仲介して、創共協定へ入っていく。
ところがうまくいかなくて、創共協定は破棄されるんだ。
この流れには『毎日新聞』も関わるんだけれどもね。
毎日は場所提供みたいな立場で、宮本顕治と池田大作の対談集を出版したんだよ。

*佐高
それに岸井も関わっているの?

⁂岸井
少しね。
中心になったのは当時の政治部長の五味三男。
それから志位素夫という、志位和夫のおじさんにあたる記者だった。
毎日の千葉支局に志位記者がいて、その先輩が初めて共産党クラブをつくった。
それまでは共産党に記者クラブはなかったんだから。

*佐高
『毎日新聞』だけじゃなくて、一応各社入ったわけ?

⁂岸井
各社入った。
そういう経緯があって、たまたま俺がスクープをやったわけよ。
そうしたら『赤旗』の編集局から、スクープの取り方について抗議してくれと言われて、俺、行って講義したよ(笑)。

*佐高
そのスクープはどうやって取ったわけ?

⁂岸井
何ということはないんだけどね。
共産党の広報って、紋切り型で、ものすごく冷たいわけよ。
これは宮本顕治を落とすしかないと、俺は連日連夜、広報を通じずに宮本邸に行っていた。
そのうちに宮顕が俺を気にし始めたわけだ。
それで、宮顕は自分の日程を岸井だけには知らせろと言い出したので、広報は戸惑っていたんだ。

*佐高
岸井が行くと、宮顕は会うの?

⁂岸井
全然会わない。

*佐高
来たことがわかるようにしておくんだ。
真面目なところは真面目なんだな(笑)。

⁂岸井
俺の取材の基本は夜討ち朝駆けだからね。

*佐高
記者の鏡のような地道な取材ぶりだよね。

⁂岸井
俺も当時は大言壮語するほうだったから、俺ならスクープを取るからといって、強引に共産党担当にしてもらったんだな。
偉そうに言っちゃった以上、スクープ取らざるを得ないじゃないの。
それで日参するわけだね。
それである日、宮顕が京都へ行くのね。
内部の転向者を押さえに行くという隠密の行動だった。
その新幹線を俺に知らせて来たんだよ。
だからそれに合わせて乗った。
ところが全車輛あるいたけど、いないんだ。
「くそ、だまされたか」と思っていたら、京都駅の駅長室で宮顕が待っていて、実は前の新幹線だったというのね。
「どうも手違いで間違えたけれども、私が意図的に君のことをだましたわけじゃない。
それはわかってくれ」と。
そこからだよ。
宿泊先のホテルに、「明日来てくれてもらって結構だ」という連絡が入った。
「やった」と思ったね。
それで宗教テーゼの概略を喋ってくれた。
俺がそれを広報部長と不破哲三に話したら、びっくり仰天していたよ。

*佐高
不破には確認のためにぶつけたわけか。

⁂岸井
そう。
それで党本部に呼ばれた。
宮本太郎広報部長、不破哲三書記局長、それから榊理論部長の三人が待っているんだよ。
テーゼ全文を携えて。
「要点筆記だけにしてください、持って帰らないでください」と。
みんな憮然とした顔してたな。

*佐高
抜かれたからには、変なふうに書かれるよりはきちんと書いてもらったほうがいい、ということだろうね。

⁂岸井
そういうこと。
変な組織だなと思ったけれども、面白かったな。
宮顕が情にほだされたのか、意図して流したのかはわからないけれどもね。
俺の『赤旗』との人脈はそれからなんだ。
榊とは親しくなって、共産党の独自理論を教わったよ。
・・・
・・・
*佐高
その頃、志位は、まだ影も形も見えないでしょう?

⁂岸井
全然だね。
宮本太郎という広報部長は元読売新聞記者で、頑固者で威張っていたよな。
榊は榊で政策なんかの権威でね。
不破がその調整で一番苦労していたと思う。

*佐高
以前、久野先生に、
「不破なんていうのは宮本の前に出ると何も喋れないみたいですね」と言ったら、
「君が俺の前に出ると喋れないようなものだ」とか言われて、
(👏)
ヤブヘビになったことがあるけど(笑)。

⁂岸井
カリスマ性を持っている人というのは、そういうものだね。
田中角栄は佐藤栄作の前では直立不動だったから。
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【割り込み】
*岸井さんのスクープ➡「共・創 協定」について。

◎『日本共産党の70年 下』(新日本出版社) 1994年・より。
(37 ページ)
《共・創 協定とその死文化】
1975年7月、「日本共産党と創価学会との合意についての協定」が「赤旗」と「聖教新聞」に発表された。
創価学会は「科学的社会主義、共産主義を敵視する態度をとら」ず、
日本共産党は「布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する」ことを表明し、民衆の福祉、恒久平和と核兵器全廃、新しいファシズムの危険の未然の防止などを実現するための相互の努力、協調、相互防衛を規定した協定の内容自体は積極的なものであり、科学的社会主義の党と宗教団体との進歩的な協調の可能性をしめしたものとして内外から大きな共感と注目を受けた。

10年を期間とした協定は、作家の松本清張を仲介とする創価学会からの申し入れに党が応じて、74年10月末から12月までの間、協議を行うなかで学会側から提起され、前後7回におよぶ協議の結果、双方の機関の承認のもとにむすばれた。
70年の宮本委員長宅盗聴事件が創価学会によるものであり、池田大作会長が名実ともにその責任者であったことは、この当時は暴露されていなかった。

協議にあたって、党は最初から、学会が支持する公明党が反共主義の方針でいるかぎり、党と学会との友好・協力関係の維持、発展は困難であることを、宗教団体の特定政党支持の誤りとあわせて一貫して強調した。
学会側が、政教分離の確立を根拠に、党の懸念をくりかえし否定したので、そのことを前提に合意協定が締結された。
党は、国民にたいする責任のうえからも、協定の早期公表を強調したが、学会側が事前の環境づくりの必要を強調したため発表がおくれた。
(・そうそう、毎日新聞によれば、「創・共 協定」締結は、1974年12月になっていますね。
公表まで7か月掛かっています。)

しかし、それに前後して、自民党、財界などの反動勢力による共創協定つぶしの圧力、また中国共産党の孫平化の池田会長への直接工作やアメリカ大使館の圧力がつよまった。
75年7月22日、学会側は内部事情を理由に協定を公表しないなどといいだした。
日本共産党の代表はこれを拒否して公表を主張するなどの経過をへて、7月27日、協定はようやく公表された。
(・「日本共産党の代表は」、確か、上田耕一郎さん、学会側代表はノミゾさんという方、記憶によりますが、でしたよね。
お二人とも、既に、亡くなられた、、、。)

協定公表の翌日、秋谷創価学会副会長と矢野公明党書記長との協議のうえで、同書記長によって「秋谷見解」なるものが発表された。
「秋谷見解」は、「左右の激突」を「止揚」して「中道勢力」を拡大することが協定の反ファシズムの精神だとして、公明党の反共「中道」路線を支持、推進することを協定の名によって正当化するなど、反共主義的”解釈”で協定を骨抜きするものであった。
この見解を、池田会長自身が8月20日、学会壮年部代表者集会の講演で、学会の公式の態度として追認した。

「秋谷見解」につづいて、創価学会は、8月末に公明党第13回大会活動方針(案)を「聖教新聞」紙上で紹介した。
この紹介記事は、憲法問題で日本共産党を攻撃する公明党の立場を「論理的」なものとして肯定し、日本共産党は「マルクス・レーニン主義という極端に党派的な一元的価値観のみが君臨する」社会をめざしており、批判の自由が封殺されるという反共攻撃の部分を紹介、合意協定の規定にそむいて、「共産主義を敵視する」路線に同調する態度をしめした。

党は、協定違反の「秋谷見解」など両組織間の問題点について率直に話し合うため、宮本委員長と池田会長との会見を学会に申し入れたが、池田会長と学会側はこれを拒否し、「すべての問題は協議によって解決する」という協定の条項をみずからふみにじった。
以後、創価学会と公明党との反共主義的”政教一体化”がいっそうつよまった。
(・この頃、住んでいた所で、軽食屋のおかみさんとバイク店の主人と話したことがある。
二人とも創価学会の人だった。
時々食べに行ったり、バイクを買ったりして、付き合いがあった。
”共創協定”について、二人が二人とも、
「あれはね、池田会長が宮本さんをシャクブクしたのよ!」と言ったものだ。
シャクブク(折伏)ね。
おかしかった、が、印象に残った。
そういうふうに内部では、伝えられているのだろうと。)

協定死文化に成功したのち、創価学会と一体の公明党は、75年10月の第13回党大会前後から反共攻撃と親自民路線をいっそうつよめた。
公明党大会はまた、それまでの安保条約即時廃棄を180度転換して、安保廃棄にアメリカの合意を必要とするという事実上の安保存続論や「寛容と抱合の精神」の名のもとに自民党との連合の方向をうちだした点で、同党の右傾化路線の画期となった。

日本共産党は75年12月の第7回中央委員会総会(第12回党大会)で「共・創協定1年間の経過にたって」を決議し、「国民の前で、合意協定をめぐる真実をあきらかにし、ひきつづきあらゆる逆行現象に必要な原則的批判を加えつつ、合意協定の内容と精神を擁護する」責務をはたしていく決意をあきらかにした。

協定は、池田会長と学会側の裏切りによって、その後まったく死文化された。

(この項、写し終)
ーーーーーー
ーーーーーー
(岸井さん、佐高さん へ戻る)
(109 ページ)
《公明党の原理的矛盾》
*佐高
いま岸井が言った「自民党に乗り潰された」ということは、まさにいまの公明党にあてはまるよ。
平和とか護憲という姿勢はかけらも見えなくなっている。
今度『世界』に「公明党の原理的滑落」というのを書いたんだけれども、9年前に浜四津敏子が出した本がたまたま手元にあって、それをひっくり返していたら、いまと全然違うことを言っている。
嫌がらせ的に紹介したのが、池田大作が『朝日新聞』に寄稿した「教育基本法は改正するより見直しを」という文章だね。
それを私は公明党に突きつけた。
「公明党の原理的滑落」と私がタイトルをつけたら、『世界』の編集部が「このまま下駄の雪をつづけるのか」とサブを加えて来た。
(👏)
ーーーー
ーーーー
(161ページ)
▲官僚と権力
(佐高ー党人派と官僚派というのをずっと辿ってみると、たとえば治安立法に強く執着するのが官僚派だよね。
保利という人はどうだった。)

⁂岸井
まったく逆だったな。
保利が官房長官だった頃は、後藤田警察庁長官、秦野警視総監の時代だったわけだけど、大学紛争が燃え盛っていた。
保利は全共闘各派の委員長連中を、官房長官公邸に連日呼ぶんだよ。

*佐高
えっ、本当? 彼らは来たの?

⁂岸井
来た。
もちろん極秘にね。
活動か連中にしたって、公にしないというのが絶対条件だったろう。
そして時には保利は、彼らを後藤田と会わせた。
つまりそれは大学を治安立法の対象にしないためなんだよ。

*佐高
岸井は保利からこっそり聞いたの?

⁂岸井
宮下創平という秘書官から。
後に長野から議員になった。
もう故人だけどね。

*佐高
しかし、それはすごい話だね。
ーーーーー
(・そう、そう、60年安保の時も、同じような出来事はありましたね。
70年にも。
逮捕された学生が、国家試験を、留置場から受けに行った、と、
そんな話を聞いたことがあります。)
ーーーーー
ーーーーー
(163ページ)
▲反対派への弾圧の実態
*佐高
もっとひどいのは、城山さんがそれでも反対運動をやめないものだから、突然、藤沢税務署が入る。
5年分の貯金通帳持って来い、と。
これは弾圧としてやったということを立証できるようなはなしではないけどね。

⁂岸井
俺にもそういう経験があるよ。
ロッキードを追及していた時、全国のうちの親戚中に警察と国税の調査が入るんだから。
いまだに真犯人はわからないんだけれど。
徹底的にやられれば、中には出てくるわな。
見解の相違もあるし。

・・・・・
・・・・・
*佐高
岸井自身のことじゃなくて親戚の身辺を調べられたの。

⁂岸井
俺自身については、金と女を徹底的に洗ったらしいんだ。

*佐高
それはないわな(笑)

⁂岸井
出なかったから、親戚がとばっちりを受けたわけ。
親戚中からうらまれてね。
ーーーーーー
(・朝日新聞あたりも、ずいぶん、やられましたよね。)
ーーーーーーー
(178 p)
●光の当たらないところに光をあてる

⁂岸井
俺は、現実の政治を取材して報道するという立場にいるから、ある意味で現実主義なのかもしれないね。
逆に言うと、理想論とかを頭に置いていると、政治記者という仕事はできない。
もし理想論にこだわる人だったら、独立するべきだよ。
そこはやはり役割分担があるんだと思う。
それぞれに長所、欠点がある。
俺の場合は、現実に何が動いていて、どういう変化が起きていて、次はどうだろうかという、分析と展望までが領分だね。
こうあるべきという理想論は根底にあったとしても、それだけでは報道ということにはならないから。

⁂岸井
・・・・
俺は、歴史が好きなんだけれども、古今東西に目を向けてみていちばん感じるのは、政治は時代がつくるということ。
政治というのは、時代の大きな流れとか力に、なかなか抗し得ない。
政治家も、時代の中から生まれてくる。
いい悪いは別ですよ。
そこには必ず時代の力が働いているなと思うんだよね。
そして、希望は、状況が危機的であればあるほど志の強い本物の政治家が生まれるということだよ。
戦後日本は豊かになっていって、明確な目標が失われ、いつの間にかバブルに突入し、崩壊して右往左往、その後始末のような、その日暮らしみたいな政治になってきた。
本当の政治を立て直そうという志というものを最近感じないね。
これも別の意味で危機なんだろうから、新しい政治家の登場を期待したいと思うね。
(・そう、そう、これは、わたしたち、ひとりひとりの課題でもありますよね。
どんな政治をー予算を使ってーやってもらいたのか。
どんな政治家を。大きいところも良くわかっているが、
貯金を無理にしなくても、安心して、はたらいて、子育てができて、くらしていける、そんな世の中、庶民の小さい努力がみのって、幸せを実感できるような、そんな社会をつくりたいですね。)
・・・・
・・・・
⁂岸井
セーフティーネットも含めて、弱者の抱える痛みに目を届かせるのが政治なんだけれども、国全体の景気を上げることによって、その余波が広がってくるという、そういう修復のしかたもあるんだよ。

ただ、俺も佐高の云う政治の本質的な役割はその通りだと思う。
毎日新聞社の社会事業団をつくった本山修一の言葉があるんだけれども、
「小指の痛みは前身の痛み。
その痛みがわからないと、政治も経済も、とりわけ公器たる新聞社の使命は果たせない」。
これが社会事業団発足の設立趣意書が最も強調している部分なんだ。
そしてこれは、
光の当たらないところに常に光を当てていくという、政治というものの要諦でもあるんだね。
(👏 拍手)

合掌


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