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July 04, 2018

日本共産党・第4回中央委員会総会 決議ーしんぶん赤旗・を読む。

2018年6月X日・ 新聞を読む。
*先ず、金子兜太さん。
《朝日新聞・2018年6月9日・土・夕刊》
(2面)=惜別
俳人 金子兜太 さん
〔俳句界を超えて 時代に警鐘〕
写真説明=「平和でなければ自由はない」と、晩年まで国内外の政治情勢を憂えていた=
・(2018年)2月20日死去、急性呼吸促迫症候群 98歳・

わずか17音。
最短の詩型に人生をかけた。
(サイタンの・・・うまい! 17文字)
時には季語や五七五の定型にもとらわれず、時代や人間をうたいあげた現代俳句の革新者。
きな臭くなる時代に警鐘を鳴らし続け、俳句界を超えた大きな存在だった。
・・・

全文読むべし
・・・
〈文・小川雪〉
ーーーーーーーーー
★金子兜太 著
  「二度生きるー凡夫の俳句人生」
  (チクマ秀版社) 1994年 全211p
を読む。

(50ページ)=第2章・転機 (日銀就職)
・・・・
戦争が激化する中、昭和18年の夏に、半年繰り上げで私は大学を卒業すると、すぐに日本銀行に就職しました。
ただし、勤めたのは3日間だけです。
いわゆるひも付き退職です。
戦地から生きて戻ることができたらいつでも職場に復帰できるというものです。
そこで4日目に退職金をもらい父に渡すと、私はそのまま品川(東京)の海軍経理学校に中尉待遇で入りました。
ここで短期現役主計官として6か月の訓練を受け、正式に中尉に任官して、ミクロネシアのトラック島に贈られました。
昭和19年、25歳の時です。
そして、終戦直前に大尉に昇進し、島を去るまでの2年7か月間、ここで過ごしたのです。
・・・・

・・・・
(53p)
【死者への責任】
私が送られたトラック島は、南洋諸島の中でもラバウルにつづく最前線の海軍基地でした。
横浜から南へ一直線のところにトラック諸島が、さらに行くとラバウルにぶつかります。
このラインが日本の生命線だったのです。
しかし、私が着任した昭和19年当時は、ラバウルは事実上孤立状態にあり、そのためトラック島が実際の中心基地でした。
ここは120もの大小からなる大環礁です。
私はその中の夏島という島にあった第4海軍施設部に主計中尉として着任しました。
施設部は約12000人の人員からなる要塞構築舞台です。
したがって軍人は少なく、その9割が自ら応募してきた工員です。
また囚人もかなりの数いました。
彼らには、腰に軍刀を下げた看守が付いていました。
わたしのいた主計課の主な仕事は、金銭に関すること、食糧の調達と管理、庶務などです。

当時トラック島には4万人の日本人がいましたが、最終的に生き残ったのはその3分の2くらいです。
それほどの激戦地でした。
特に昭和19年6月にサイパンが陥落してからというものは、のべつ幕なしに米軍機が飛来し、爆撃と銃撃を繰り返します。
本国からの食糧の補給は完全に絶たれ、食べ物がなくなって次々に餓死者が出る有様です。
特に私がいた施設部は工員がほとんどでしたから、餓死者の多さにかけては一番でした。
というのも、行員の地位は軍人以下で、そのため食料の補給が絶たれて自給自足を余儀なくされた時、もっとも粗悪な条件を強いられたのは彼らだったのです。
兵隊の方が大事だという理由からでした。
カリ肥料の乏しい畑ではろくなイモも育ちません。
腹をすかした工員たちの中には、とうとう餓えに耐え切れず、なんでもかんでも拾い食いをする者が出てきました。

ダイナマイトを放り込んで魚をとる際、あがってきたふぐは捨てるのですが、それさえ拾ってきて食べるのです。
そんなもの食ったら死ぬぞといくら言っても、「ああ、うまい、うまい」とがつがつ食べ、案の定すぐに死にます。
(・スゴイ こうけい だよ、、)
南洋ほうれん草と私たちが呼んでいた草も同様です。
ぐずぐず煮て食べ、食べすぎて下痢が始まって、やせ細って死んでいきます。
下痢をし、脱水症状を起こし、最後には骨皮筋ェ門になって眠るように死ぬのです。
餓死というのは、食べ物がないから起きるというよりは、餓えに耐え切れないから起きる場合が多いのです。
餓えに絶えきれず、どんなものでも口に入れるから下痢をして餓死するのです。
程度にもよりますが、飢えを我慢できたなら人は生き残れます。
それができない人が死ぬことが多いのです。

戦争末期には日に3人から5人がこうして餓死していきました。
私の見ている前でばたばたと死んでいくのです。
その内死体をきちんと埋める場所もなくなり、山の上に大きな穴を掘ると、葬儀班というのを作って、元気のいいのがそれをかついで登り、穴の中にまとめて葬る有様でした。
もちろん死んだのは工員だけではありません。
米軍による爆撃や銃撃によって、兵隊も大勢死んでいます。
なにしろ4万人のうち3分の1が亡くなっているのです。
(40000 x 0.3 = 13333・ 13333人の死者!)

しかし、私の直接の部下は工員でした。
私は彼らを200人ほどあずかっていました。
その彼らが次々に死んでいったのです。
私は責任を感じました。
部下をこんなに死なせて、これは私が悪いんだ、彼らの非業の死は自分の責任だと、強く感じるようになったのです。
しかし、そう思いながらも、一方では机上の計算もしています。
主計課ですから、食糧の調達や保管が仕事です。
食糧があとどのくらいあるのか把握できます。
その限られた食料に対して、何人死ねば他の者の口にそれが回るかと、仕事といえそろばんをはじいているのです。
死者への責任を感じながら、一方でそのような計算もしている、そんな自分が薄汚く思えてなりませんでした。
まだ若かっただけに、それは余計に私の身にこたえました。

この時の気持ちが戦後の私の行動すべてにかかってきます。
日銀における組合活動も、このときの気持ちがベースになっています。
つまり、死者にたいする責任です。
生き残った限り、この人たちに報いることを国に帰ってからしなくてはいけない、あの時、私は心にそう決めました。
それが、後の私の行動の原点なのです。
(礼!)
・〈2018-1994=24・ 24年前、兜太さん、74歳の時の文、)
・・・・
⁂(59ページ)=【戦場での割り切り】
・・・・・

・・・・・
極限状態に置かれた戦地では、女性と食べ物はもっとも切実な問題でした。
兵隊や行員はそれが手に入らずぐっと我慢しているのです。
それならおれも我慢しないといけない、その気持ちから私は自分の精神でコントロールしました。
おかげでなんとか信用を得、中には、戦後引き上げる際、金子さんが残るなら私も残りたいと言ってくれた人までいました。
これは余談ですが、この空腹我慢状態のおかげで、センブリに依存していた私の胃袋が治ってしまったのです。
戦後の私の健康の基には、この丈夫な胃があります。

人間には時には割り切りが必要です。
食い物はみんなといっしょと決めればみんなといっしょだし、戦争中は女性には手をつけないと決めれば手をつけない。
人を殴るものでないと決めたら、二度と殴らない、
戦後は反戦平和でやると決めればそうする。
(👏)
いったん決めたことはその通りに守る、これは男の美学です。
そうすることで自ら人の信用も得られるのだと、私は思っています。
(👏 礼!)=写し終わり=合掌
ーーーー
【一句、ここで】
兜太の句
アベ政治を、
許さない
(作者=オレ)
ーーーーー
ーーーーー
●第4回中央委員会総会 志位委員長のあいさつ
(6月11日)

◎新潟県知事選―市民と野党の共同したたたかいは今後につながる大きな財産をつくった◎
・・・・・
50万票を超える得票を得て、大健闘のけっかとなりました。
池田さんの大奮闘をたたえたいと思います。
(拍手)
・・・・・・
◎なぜ4中総を開催したか―ここで党勢の上げ潮をつくらねば選挙に勝保証はない◎
(・う~む)

(3中総以降の党活動の成果)
・国会論戦ー党議員団の働き
・安倍政権による9条改憲を許さないたたかい。
・市民と野党の共闘の発展ー国会共闘、「原発ゼロ」の共闘、「オール沖縄の共闘」
・朝鮮半島問題の平和的解決にむけた外交活動、日本共産党ならではの先駆的な意義をもつ。
・3中総以降の中間地方選挙で、改選比で22の議席増をかちとっている。

【同時に、一方で、党勢拡大については、連続的に後退が続くという状況にあります。
このまま推移するならば、来年の参院選・統一地方選で躍進をかちとるという大目標とのかかわりで、致命的な弱点となりかねない状況にあります。
・・・
党勢の新たな高揚をつくりださなければ、選挙に勝保障はない。
わが党に寄せられている多くの国民の期待に応えることができない。
わが党に寄せられている多くの国民の期待に応えることができない。
いまが頑張りどころであり、そのイニシアチブを発揮することは、大会で選出されたこの中央委員会の重大な責任だと考え、この総会を緊急に招集いたしました。】
(・なるほど。)

◎「特別月間」―「前回参院選時の回復・突破」という目標を必ずやりきる◎

・6月11日から9月30日まで=必ず、やりきる。

◎参院選を「前回比3割以上」でたたかい、党勢拡大と選挙躍進の好循環を◎

・「前回比3割増以上」という目標は、党員でも、読者でも、現勢の1,4倍以上をめざすという目標になる。=

◎希望ある変化をはらむ大激動の情勢をリードする強く大きな党を◎

・大激動の情勢をリードする、強く大きな党をつくる事業を本格的に前進させるときです。

(拍手 👏)
ーーーーーーーー
ーーーーーーーー
【第4回中央委員会総会 決議】
●「参議院選挙・統一地方選挙躍進党勢拡大特別月間」をよびかける●
  2018年6月11日

1、「特別月間」のよびかけ―前回参院選時を必ず突破し3割増へ

○3中総実践の到達と「特別月間」のよびかけ○


○「特別月間」の意義―参院選・統一地方選躍進の土台をきずく○

2、いま強く大きな党をつくる条件は大いにある

○大激動の情勢と日本共産党の値打ち―国民の中に打ってでて大きな党をつくろう○

○3中総以来のすべての努力を党勢拡大に実らせよう○

3、全支部・全党員の運動にし「特別月間」を成功させよう

・7月15日は、わが党は、世界と日本の激動のもとで党創立96周年をむかえる。

安倍政権は、疑惑と不祥事にまみれ、内政・外交ともに破たんを深め、いよいよこの戦後最悪の反動政権を倒すときがやってきた。
・・・
全文読むべし!

(終)
ーーーーーーーー
●小池書記局長の結語●
・24人の同志が発言しました。
・党内通信やインターネットでの、全国での同時視聴は12、582人と報告されています。

○共同の事業として民青を増やそう○

○2週間以内に全支部・グループ、議員団が討議・具体化を○

○「特別月間」の成功は、わが党の国民に対する責任!
・・・
全文読むべし!

(終)
ーーーーーーー
◎Kさん(女性・82歳)の話を聞く。
現在、夫(77歳)と二人で暮らしている。

向島(墨田区)で生まれた。
終戦の時、9歳だったが、その時は葛飾区に住んでいた。
昭和16年、父が突然「ここはあぶない、引っ越す」と言って、墨田から当時としては田舎だった葛飾へ移った。
父親は、戦前、大学関係の仕事をしていた。
学習院に関係していた。
生活は恵まれていた。
昭和20年3月9日の東京大空襲、みんな、3月10日と云うけれど、私たちにとって、9日だった。
空が真っ赤だった。
翌日から、墨田で焼け出された親戚、知人が私たちの所へ避難してきた。
真っ黒な顔をして、ボロボロの着物を着て、ふらふらして、歩いて。
多い時で、30人家にいたこともある。
父親は、食糧確保で苦労した。
立場を利用したりして、それで、警察に捕まったりした。
私も死体は一杯見た。
焼夷弾のあとやられた人は本当に悲惨だ。

戦後、いろいろあったが、生き方の原点にはあの体験がある。
選挙?
選挙はね、ずーっと共産党できた。

葛飾から荒川の人と結婚して荒川区へ来た。
戸建ての家で、舅さん、姑さんと同居した。
義父は国家公務員、結構偉い方だった。
定年直前、急死したけど。
選挙は、家はもちろん、自民党よ。
投票日、義母は必ず私と一緒に行った。
投票所に入る時、「自民党に入れるのよ」と言った。
投票所から出てくると、「ちゃんと書いてくれた」と念を押した。
私は「はい」と答えた。
両親に逆らったことは一度もないけれど、この時のウソは許されると、今でも思っている。
私は、共産党(不破さん)に投票していた。
義母の介護を私は22年間続けた。

近所との付き合いは教えられて一生懸命やった。
町内会が主だった。
友達も多くできた。
その中にFさんがいた。
明るくて堂々としていて。
その人、自民党区議の奥さんだった。
選挙の時、手伝いを頼まれた。
ことわれなくて、選挙運動をやった。
候補者カーの運転手もやった。
アナウンスもやって。
区議さんも奥さんも亡くなったから言うけれど、それでも、その選挙でも共産党の小島さんに入れた。

夫は真面目な人で、理解のある人で、二人だけになって、赤旗日曜版を読むようになった。
5年前、夫が倒れて、病院や生活で色々な人の世話になった。
幸い回復した。
この年で、これから何が出来るか分からない、人様の役にたつかどうかわからない。
しかし、決めていることはある。

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