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October 09, 2018

天皇陛下 在位中最後の終戦記念場 (朝日新聞/2018・8・15)

2018年X月X日 新聞を読む。
●朝日新聞・2018年8月15日・水・●
(20面)=見出し
【天皇陛下 在位中最後の終戦記念日】
《慰霊と平和の祈り 次代へ》
天皇陛下は73回目の終戦記念日となる15日、皇后さまと在位中最後となる全国戦没者追悼式に出席する。
11歳で終戦を迎え、国内外で慰霊の旅を続けてきた。
その思いは、次代へ受け継がれようとしている。

《戦没者に心寄せ 国内外の旅》
=原点に疎開体験 列車から見た焼け野原=

【両陛下の務め 継承望む声】
《皇太子さま ご一家で戦争体験聞く》

【陛下のメッセージ 戦争の風化防ぐ】
=元侍従長 渡辺 允 (わたなべ・まこと)さん
ーーーーーー
●戦争と天皇、皇后陛下の歩み●

1941年
12月 8日、太平洋戦争始まる

1944年
5月 明仁さま(天皇陛下)が静岡県の沼津御用邸へ疎開。のちに栃木県日光市へ再疎開。

1945年 
3月 美智子さま(皇后さま)が群馬県館林市などへ疎開
    10日、東京大空襲
6月 23日、沖縄戦終結
8月 広島(6日)、長崎(9日)に原子爆弾を投下される
    15日、終戦

1947年
5月  3日、日本国憲法施行

1972年 
5月 15日、沖縄返還
ーーーー
1975年~2018年 略 全部読むべし!
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ーーーーーーー
ここで、本から書き写してみよう。
ーー
🌟ハーバート・ビックス (Herbert P. Bix)
*吉田裕=監修
・岡部牧夫・川島高峰・永井均=訳
「昭和天皇 上・下」  2002年
 (講談社)

(下)
ー155p-〔第14章 創り直された君主制〕

11歳の皇太子明仁(あきひと)は、米軍による空襲を避けるため、栃木県日光町にある安全なホテルに疎開していた。
降伏の後、(昭和)天皇と皇后は彼に手紙を書き、どうして日本がそこまで打ちのめされてしまったかについて説明した。
ふたりの手紙は親の愛情に満ち溢れており、占領された首都の緊迫した窮状の一端を伝えていた。
そして、より重要なのは、この手紙が敗戦直後における日本の統治者思考様式をも明らかにしていたことである。
1945年8月30日、
皇后は明仁にあてて次のように書き送っている。
「こちらは毎日 B29や艦上爆撃機 戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて、朝から晩まで飛びまはっています。
B29は残念ながらりっぱです。
お文庫の机で この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいのがとほったかわかりません。
しっきりなしです」。
天皇にとっても、「超空の要塞」に象徴される卓越したアメリカの科学技術は印象深いものであった。
数か月前、彼は皇太子に対し、皇后とともに御文庫の庭を散歩していたところ、「B29関係の品が とれた」と伝えている。
天皇は皇太子に宛てた9月9日付の手紙の中で、日本の政策決定過程で彼が中心人物であったこと、そして敗戦の主要で全般的な原因を招いたことには触れずに、次のように説明している。


 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
明治天皇の時には 山県(有朋) 大山(巌) 山本(権兵衛)等の如き陸海軍の名将があったが 今度の時はあたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考えず 進を知って退くことを知らなかったからです
戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民を殺さなければならなくなったので 涙をのんで国民の種をのこすべくつとめたのである


幼い皇太子が1945年8月15日の日記に書いた「新日本の建設」という堅苦しい題の長い文章は、敗戦に関する別の要因をも明らかにしている。
両親と宮廷の教育係が彼に教えた日本の屈辱的な話を繰り返しながら、皇太子は「無条件降伏といふ国民の恥」を彼の父親自身が引き受けたことを知り「非常に残念に」思ったと告白している。
しかしながら、日本は戦(いくさ)に負けたのである。


 それは英米の物量が我が国に比べ物にならない程多く、アメリカの戦争ぶりが非常に上手だったからです。
(英米は)初めの内は準備が出来なかったので敗戦しましたが、いざ準備が出来上がると猪武者のやうな勢いで攻めてきました。
その攻め方も上手でなかなか科学的でした。
・・・・遂には原子爆弾を使って何十万という日本人を殺傷し、町や工場を破壊しました。
・・・・・・
遂に戦争が出来なくなりました。
その原因は日本の国力がおとっていたためと、科学の力が及ばなかったためです。

皇太子は敗戦の要因を、国家の指導者や政治制度よりも、むしろ日本の国民に帰していた。
「日本人が大正から昭和の初めてにかけて国ためよりも私事を思って自分勝手をしたために今度のやうな国家総力戦に勝つことが出来なかったのです」。
そして、いまやとるべき唯一の道は天皇の言葉にしたがうことであった。
 
ーどんなに苦しくなってもこのどん底からはい上がらなけらばなりません。
それには日本人が国体護持の精神を堅く守って一致して働かなければなりません。
日本人一人とアメリカ人一人を比べれば、どんな点でも日本人の方がすぐれています。
唯団体になると劣るのです。
そこで団体訓練をし科学を盛んにして、一生懸命に国民全体が今よりも立派な新日本を建設しなければなりません。
ーー

新しい日本は科学を育成し、国家目標に向かって組織力を高め、過去は終わったと考えるべきだというのである。
指導者層は、当初から「大東亜戦争」の敗戦の責任に目を奪われていた。
彼らの分析は真珠湾以前の、天皇も支持した満州における支配の拡大や、天皇に鼓舞されて近衛内閣が総力戦へとエスカレートさせた1937年の「北支事変」、そして敗戦の一因となったアジア・ナショナリズムの役割については無視していた。
1931年の中国に対する攻撃や1941年12月の米英への攻撃に対する責任は、国家に多くの恥辱と惨めさをもたらした最終的な敗北に対する責任にすり替えられた。
いうまでもなく、天皇は、この結末に対する自分自身と宮中グループの責任をいかなるかたちであれ負うことはなかったのである。

日本人の利益追求が自己本位であったという皇太子の捉え方は、戦争に関する公式見解の別の要素を反映していた。
自身の性格、そして訓育の結果、昭和天皇は個人の自己主張について疑問を持つようになった。
彼は、人間の本心の命ずるままに従えば、理想化された共同体的自我に対する信念や「国体」に対する信念に脅威が生じると信じていたのである。
天皇と宮廷の側近たちは昭和の初めから、滅私奉公と官に対する服従を習慣とするよう国民の教化を積極的に推進した。
そして彼らは1937年以来、戦力を急速に増強するために生活水準を徹底的に低く抑える政策を支持してきた。
新しい国家をいかに建設するかを検討する段階になったとき、彼らは当初、こうした古い価値がそのまま通用するかもしれないと考えていた。
自由主義や個人主義、そして民主主義に対する敵意から、彼らは日本人の「盲従」性を非難する一方で、国益よりも私利に重きを置く無分別さを非難した。

戦争の本質について、このような広く流布した見方をしたため、天皇やその側近、そして有力な保守的指導者たちは、およそ敗北の原因と新日本の建設との関連性を追求できなかった。
そして彼らはいまや、自分たちのそのやり方をアメリカの占領者を意識して手直しするのだった。
ーーーー
ーーーー
◎途中、残念だが、大きく省略して、最後のところへ飛ぶ、
ーーーー
【(282ページ)=第17章 静穏な晩年と昭和の遺産】
・・・・・(昭和天皇の死)・・・・・

翌日、56歳の皇太子明仁が天皇の任務を引き継いだ。
彼は浩宮、礼宮、紀宮という3人の成人した子の親で、その践祚には、昭和天皇のときのような難題はなかった。
短い儀式のなかで、彼は日本国憲法を守ると述べた。
 
東西ドイツが最終的に統合され、冷戦が終結し、世界最大の帝国ソ連が解体に踏み出すなかで、「平成(達成された平和)」の新時代が始まった。
政治情勢はいたるところで流動化の度を強めた。
日本では後を絶たない汚職による卑小な政治危機が体制をゆるがしていた。
89年7月の参議院選挙で自民党は戦後初めて一時的な敗北を喫した。
この1年間に3人の首相が登場し、辞職した。
昭和天皇の葬儀と新天皇の即位式をめぐって、支配エリート間で深刻な論争があった。
天皇が即位のための一連の儀式を始めるのは、慣例による1年間の服喪が明けてからだった。
式典は昭和天皇の大典と同様、すべて国費で行われたが、ずっと簡素で落ち着いたものだった。
国民は興味深く傍観し、少数の人々は深く感動した。

儀式は、1990年11月12日、皇居で行われた即位式で最高潮に達した。
世界158か国からの1500人を含む約2500人以上の高官が参列した。
その2週間後の11月23日、皇居東御苑で733人を招いて大嘗祭が催された。
どちらも民主主義の日本にふさわしくないものだった。

即位式は中世的な行為の聖性を象徴しており、天皇は高い壇上に立ち、総理大臣は臣下のように低い場所から天皇を仰ぐ。
国民主権の思想は無視されていた。
6時間におよぶ大嘗祭は、1909年の勅令に基づくもので、1947年の新憲法には何ら規定されていない。
それでも新天皇は、憲法を遵守すると誓約しているのだ。

大嘗祭という宗教儀式は、明治期の絶対主義的な政治文化を基礎とする国家神道を復活させるものである。
その意味で憲法上の政教分離の原則を無視している。
こうした批判に対しして政府当局は、新治世の最初の宗教行事は憲法とは関係がなく、国民のために祈念する儀式であって、天皇が神格を得るという意味はまったくないと説明している。
事実、即位式は昭和天皇のそれに比べて宗教色が薄く、また当局者やジャーナリズムもそれを機会に天皇の人気を高めようとはしなかった。

1990年12月、即位が終わり、急速に忘れられてゆくなかで、天皇は記者団のインタビューを受けた。
〔即位式の「天皇陛下万歳」の三唱から〕戦争を連想しなかったかと尋ねられた天皇は、「私の世代は〔戦争とは〕かかわりのない時代に長く生きているので〔戦争を思い出したということは〕ありません」と答えた。
昭和天皇ならけっしてできない言明である。
その後毎年誕生日を前にして記者会見が恒例となったが、戦争をめぐる深刻な質問はそれ以来なくなった。

天皇と皇后はすぐに外国訪問を再開した。
1992年10月、彼らは北京政府の強い要望で訪中し、「皇室外交」の意味をめぐって国内に論争を巻き起こした。
敗戦50周年の95年8月には「哀悼の旅」として広島・長崎両市と沖縄を訪問したが、これはさほどの議論にはならなかった。
こうして日本の過去の戦争に起因する苦難だけに目を向け、彼は父の戦争責任に触れることを避けたのである。

20世紀が去り、日本の発展が憲法改定を暗示しているにしても、明仁が将来いつか、明治時代のような劇的なあるいは昭和初期のような状況に国民を導くだろうとは思えない。
彼の性格、能力、教育、関心すべてから見て、そのようなことにはならないだろう。
(👏👏)
また、第二次世界大戦以後も未解決になっている多くの問題は、日本の君主制自体に固有のもので、個々の天皇にはさほど関係がない。

それでも、明治天皇における伊藤その他の元老、昭和天皇にあっては木戸、軍部指導者、もしくはマッカーサーに相当するような国の指導者が将来あらわれ、新しい天皇やその後継者をうまく利用することになるかもしれない。

その人々が、かつての指導者と同じように、民主主義の深化と国民の主権者意識の成長を阻止する方向で天皇制を動かすかどうかは、日本の新紀元にとって重大な問題である。
(終)
ーーーー
*平成もおわる。
(Hwrbwrt P, Bix)氏の結びの3行、重く、注意深く、受け止めよう。

  

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